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無縁の居場所

 私は喫煙者である。

 そして、パイプたばこを嗜んでいる。

 しかし、パイプたばこというのは、コンビニには置いていない。なものだから、わざわざ自宅から離れたタバコ屋に買いに行くことになる。だいたい徒歩にして二十分程度なのだが、その途中に無縁仏を供養しているお寺があり、そこは立ち入り自由なので、お坊さんが日々の行持をやっている声を聞きながら、手を合わせて帰ったりすることもある。

 なぜ、そんなことをするかというと、前に半ば失踪ついでに四国遍路を無銭で行ったさいに、ところどころにお地蔵さんが立っており、「ここで死んだら、何もなく終わるのか」と思ったからだ。ここで遍路をして死ぬわけだから、恐らく身の毛もよだつ罪人もいるだろうが、罪人が拝んでもらえるということは、私も拝んで貰えるということだ、と思ったときから、私はたまにこういう無縁仏には何処か妙な仲間意識を覚えてしまうのである。

 無縁仏というのは、親戚や類縁者がいない故人のことであるのだが、どうやらこの無縁仏、世間的には手を合わせてはいけないという話らしい。というのも、無縁仏というのは孤独であるため、誰からも相手にされず、だからこそ手を合わせてくれるような親切な人を見つけると嬉しくなって、手放すものかと思ってその人をあの世に連れていくかららしい。

 私はこの種の話をバカバカしいと思うから、心置きなく手を合わせるのだが、同時にこの話が「世間知」的によく出来ていると思う。良く心が弱くなってしまった人を手助けすると、その人が依存してきてしまうという話は良く聞くからだ。フロイトが悩ませた転移という機構に近いものが死者にあると推測することは、それはそれで自然なことである。

 この話を何故したのかというと、いわゆる「公共圏のあり方」というのは、このような死者の取り扱い方によく出ているような印象を覚えたからである。

 例えば、見田宗介という社会学者によって書かれた『社会学入門』(岩波新書)の中では、次のように語られている。

 メキシコのインディオにとって、とても大切な祭りのひとつに「死者の日」というのがあります。11月1日から2日にかけて死者たちが帰ってくる日で、村の墓場で死者たちと一緒に歌ったり踊ったりして、夜と昼を楽しく過ごします。何日も前からこの日のために、ごちそうを作ったりして準備をし、祖先のお墓や町中はドクロアートで華やかに彩られます。一緒に過ごす死者の範囲は「自分の死者たち」で、血縁関係の近さとは必ずしも同じではなく、なつかしいと思う死者たちだということです。もう一つ面白いのは、ごちそうを「自分の死者たち」の数よりも1人分多く、余分に作っておくという風習。どの生者にも呼び出されない孤独な死者たちもいるので、そういう死者たちがうろうろしていると、どこかの家族に呼び出されている死者の1人が「おれと一緒に来いよ」といって誘ってくるのだそう。そうしてやってきたプラスワンの死者が寂しい思いをしないよう、ごちそうの数に必ず余分に作っておくのです。これはもちろんメキシコの、生者の社会の投影です。メキシコでは友人を2人誘うと、その友達とかフィアンセとかを引き連れて4人で来たりする。こうして友情がひろがってゆく。この社会が「よそ者」にとっても魅力的なのは、こういう感覚からくるように思います。

 問題は、このような「死者への取り扱い方」が「生者の社会の投影」という仮説を一つとして受け入れるとするならば、私たちの社会の根っこに存在している無縁性に対する言いも知れぬ不吉感というか嫌悪感とは、まさに私たちが「孤独死」といったものに衝撃を受ける社会を反映しているということも可能ではある。

 私は実際にどうなのかはわからないが、私がフォローしている方がSNSに流していたことに、「昔の仏教寺院というのは自由に入れるものだったが、今の若いお坊さんというのは、寺院というものを自分の家だと勘違いしている」という話を共有していた。まず一つに、名前のある死者に手を合わせるということは、その人が有名でも無い限り、特にやる必要のないことであるというのは直感的にわかるだろう。私が三鷹に住んでいた時は、太宰治の墓に参るついでに、森鴎外の墓も参ってはいたが、人間の誰しもが太宰治でもなければ、森鴎外でもないというわけだ。

 同時に、私のように「無縁性」に対する一つの発心というのが、恐らく昔の仏教寺院にはあったのかもしれないとも思う。例えば、村八分の例外として「葬式」があるのは、もちろん日本人の土着的な心情として「穢れ」というのもあるのだろうが、誰でも気持ちよく成仏させて欲しい、それだ有縁・無縁関係ないことであるという素朴な感性もあったと思う。例えば、石原慎太郎が死去されたさい、それらを「祝う」言葉に対して、激しい嫌悪感が出てくるのも、そのような善性が現れてしまったということは、それはそれで理解は出来る。

 問題は、このような無縁性に対して、段々と取り扱いが難しくなってきているところはある。それは、仏教寺院が自らの起源を公共性あるとは思っていないだろうし、また公共性があったとして、それは何の関わりがあるだろう、ということだ。殆どは檀家との交際で終始しているところが恐らく殆どであって、私のような不埒な人間が小汚い格好で現れることを良しとしないというのはあるだろう。それは一つの公共性のあり方である。

 だが、今宵の「大学の立ち入り制限」にしろ、何処かに何とか無縁のいる場所が会って欲しいと気持ちもあって、私はたまにお参りをするのであった。