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「疎外論的認識と物象化論的認識が対決する社会」についてのスケッチ

最近思うことで、あまり一般的はない頭のおかしいことをメモしておく。本来、日記帳というのはそういう使い方をするべきだ。それに議論がかなり粗雑で偏見に満ちていることも理解している。ただのスケッチか、あるいはポストに入っている怪文書として理解してくれれば嬉しい。

自分が「はてなダイアリーはてなブログではない!)」を始めた頃、「非モテ論壇」というものがあった。要は「モテないということはどういうことか」ということを考えよう、という話であった。その中に「モテない」ということは、男性性の束縛であるわけだから、そこから脱出しようという、「メンズリブ」、つまり「男性性からの解放」という話があったのを覚えている。つまりフェミニズムの男版である。

現状として、その当時のことを思い浮かべるにこのような「フェミニズム」の男版は流行っていない。彼女たちは自分たちの考えている何かしらを「フェミニズム」と名付けて連帯をしている。一方で、男性たちはむしろ「連帯のできなさ」が問題になる。例えば、「キモくて金のないおっさん」というのはそのような「連帯のできなさ」のリミットである、ということが出来る。

個人的な実感として、男性の不満とは一般的に「これが本来の私ではない」という部分から来ている(一般的にこれを「疎外論」と呼ぶ)。他方で、女性というのは「私が私である」ということに不満を感じることが多いように感じる(これをあえて今回は乱暴に「物象化論」と呼ぼう)。

これはかなり妄想に近い電波的な話であるが(根拠が無いのにこういうことを言うやつは、基本的に頭がおかしい)、このように形式化すると、実はなぜ「オタク」と「フェミニスト」の対立なのか、ということに辻褄があう。

元々「オタク」の自意識というのは、何処か「私は虐げられたものである」という側面が存在していた。これはあくまでも過去形の話である。ただし、これは「オタク」本人の問題であって、「オタク文化」の問題ではない(もはやオタク文化そのものは、むしろ抑圧機構になりつつある)。つまり「オタク」たちには、その「文化」の立ち位置に関わらず、そこに薄い「疎外論」的な認識が横たわっているということができる。

疎外論自体は論理的には杜撰であるのにも関わらず、それが非常に説話的には説得力があるというズレがある。例えば「本来はもっと出来るはずだ……」と歯を食いしばり、唇から血を流すという実感は、それが不合理であり、如何に現実的に正しくなかったとしても、そう感じることはある。そのような錯覚を上手く説明しているということが出来る。錯覚は錯覚なので正しくないのだが、しかしその正しくなさを正確に書いているので、正しく見えるという構造があると、自分は理解している。そして、この構造を「男社会全般」までに広げることが出来る(男は疎外を持ちえない人間とは連帯できず、疎外自体が男性であることが要因になっているわけではない)。

「アンチフェミニズム」が良く述べることとしては、「私たちは上手くやっていた。だが、フェミニズムがやってきて……」という物語であることが多い。これが事実かどうかはともかく、ポイントとしては「もしフェミニズムがいなければ本来の私であった」という構造を取ることが出来る。

だがしかし、フェミニズム(を自認する人たち)の言葉を良く聞く限り、彼女たちの問題の多くは「私が女性であること」に関する不満であるということが出来る。例えば「性のモノ化」という議論は、性に対して物象化的な契機、すなわち「現象自体がモノとして定型化される」ような契機が存在しなければ、このような議論は出てこないだろう。現象は現象であるので、様々な側面を持ちうるが、それを一元化して「こうである」というような決めつけが発生することを物象化と呼ぶとするならば、そのような「決めつけ」に対して、いらだちを覚えているということ、というように感じる。

とはいえ、私たちが社会に参入するときには、何らかの物象化的な契機を免れない。チェーン店に行くのは、食事の作法を一元化することが出来るからだ。どうしても、日常生活を送るためには、出来事に対して何らかの一つの解釈で固定する側面は否めない。

ここで重要なのは、疎外論が物語的に説得力を持つのに対して、物象化論が論理的に説得力を持つ、という対立である。重要なのは、熊野純彦が述べていたのだが、疎外論の中で生きることはできても、物象化論の中で生きることは難しいという側面がある。もし物象化論的な生き方をするならば、それは「私が私として固定化される契機から絶え間なく逃げる」、つまり私を開き続けるといった生き方になるということができる。このような「疎外論と物象化論」という二つの「説得力」がぶつかり合っている場が仮想的に「男と女」を代理しているという捉え方が出来る(もっと乱暴に言えば「疎外論的認識」こそが、今の「男という主体」を生むのであり、「物象化論的認識」こそが今の「女という主体」を生む、という見方ができる)。