Archive

不能を恐怖するということ

 たぶん、女性にとって一番男性の解らないところの一つに、不能恐怖があるということだろうと思う。言わば週刊誌などを見てみると、驚くほどインポテンツを治すことについて煽っているし、それは女性の避妊薬(ピル)が認可が遅れたのと違い、六ヶ月という異例のスピードでバイアグラが認可されたことと比べると、その根深さは計り知れない。

 なぜ急にこの話をするのか、というと、今ではあまり交流の無い知人の一人に、精神科医でエッセイストである岸田秀が好きである人がいるからだ。もう岸田秀といえば余り馴染みは無いかも知れないが、一番有名なのは『ものぐさ精神分析』という本で、私なんかは一読して「こんなことを断定的に言われても困るな」と頭を掻いたことがある。とはいえ、彼の言う「人間の本能は壊れており、その壊れた部分を補填するために幻想で埋め合わせする」という話は、それなりに安心した人は多くいるのかもしれないなとは思う。

 その岸田秀という人の書いた、たまたま古本屋で拾った『性的唯幻論序説』(文春新書)の冒頭の始まりが、下のようになる。

 人間は本能の壊れた動物であるというのがわたしの出発点である。もちろん、性本能も壊れている。性本能が壊れているということは、人間は本能によってはいわゆる正常な性交ができないということである。本能によって男が女を求め、女が男を求めるということはないということである。正常な性交ができないということは不能ということである。人間は基本的に不能なのである。しかし、それでは人類は滅亡するので、人類文化は幻想に頼っていろいろな策を講じ、何とかある程度は不能を克服してきた。

 これは最初の文章であるが、正直なところよくわからないというのが印象である。なんというか岸田秀節としか言いようがないものであって、特によくわからないのは「正常な性交ができないということは不能ということである」ということが、論理的に繋がっていない感じがあるところなど、このあたりのモヤモヤ感が苦手だというのはある。だが、このような前提を頭ごなしに「非科学的」だと言わずに、間に受けてみるとわかることがある。

 それは、最近コジェーヴという思想家の『ヘーゲル読解入門』という本をノート取りながら読んでいることに関係している。このコジェーヴという人は、いわば精神分析医のジャック・ラカンや、思想家のバタイユなどに影響を与えた人で、言ってしまえばフランス現代思想の元ネタみたいな人だ。比較的最近でも、フランシス・フクヤマなどが影響を受けているという話が出ている(ちなみに東浩紀の『動物化するポストモダン』にも影響を与えている)。

 ここでコジェーヴの話をするのは、岸田秀が「人間は本能が壊れている」という所与のものとして考えるわけだが、コジェーヴは「人間は本能を壊していく」という過程の話として考えの違いとして考察すると見えることがある。

 例えば、次の一節がその部分になる。

 人間が真に人間的であるためには、人間が本質的にも、現実的にも動物と異なるためには、その人間的欲望が実際に人間の中で人間の動物的欲望に打ち克つ必要がある。ところで、いかなる欲望も或る価値を目指した欲望である。動物にとっての至高の価値はその動物的生命であり、動物のすべての欲望は、究極的には、その生命を保存しようという動物の欲望に依拠している。したがって、人間的欲望はこの保存の欲望に打ち克つ必要があるわけである。還元すれば、人間が人間であることは、彼が自己の人間的欲望に基づき自己の(動物的)生命を危険に晒さなければ「証明」されない。

 従って、男性が不用意な勃起を恥ずかしがったり、あるいは子供たちにとって「やい、スケベ!」というのが罵倒語として流布するのは、フロイト的には去勢的な役割もあるが、コジェーヴ的に見れば動物的欲望を否定しているともいえる。しかし、動物的欲望の否定形には、もう一つの方法がある。それは明らかに本来、動物的欲望の対象とはならないものを欲望するという方法もある。言いかえれば、片や「動物的欲望を破壊して人間的欲望を手に入れる」か、あるいは「動物的欲望を変形して人間的欲望とする」という二つの経路があるということを、コジェーヴは指摘している。

 このような二つの形態がヘテロ男性にはありうることを、本人達も含めてあまり語られない。したがって、「話の通じなさ」というのはこのように二つの欲望の編成によって置きているということが捉えにくくなっている。「動物的欲望を打ち消すこと」と「動物的欲望を変形すること」という二つがあることを考慮すれば、なぜ多くの女性が性的消費として指し示している表層が、男性にとっては性的ではないと否認するのか、という問題がここにはあると言える。冒頭の岸田秀的に言えば、男性は「不能でありつつ、不能ではない状態」というのがどうやらあるという風に言うことができる。

 さて、このように考えた時、コジェーヴは次のように書き連ねている。

 人間的実在性が社会的実在性であるならば、社会は欲望として相互に他を欲し合う欲望の全体となって初めて人間的となる。したがって、人間的欲望、より正確に表現するならば、人間の生成をもたらす欲望、すなわち自己の個体性、自己の自由、そうして自己の歴史性を意識する自由かつ歴史的な個体を構成する欲望――このような人間の生成をもたらす欲望は、実在する「肯定的な」所与の対象ではなく、他者の欲望に向かうという事実によって、(ただ行き、ただ自己の生命感情をもつにすぎない自然的存在者を構成する)動物的欲望と異なる。

 なるほど、「他者が欲望をなしているもの」を表象しているのは広告である。だが、もう一つ面倒くさい状況が発生する。それは他者の欲望を否定し、その欲望に成り代わろうとする欲望というのが存在しているということである。つまり「他者が欲望しているもの」としての広告表層を否定し、それと成り代わろうとする欲望も発生するはずだ。

 「他者が欲望しているもの」を欲するということについでは、岸田秀の次の文章と合わせて見れば、両者の違いはわかりやすくなる。

 ところで、異性の親に育てられる男の子が直面する最初の状況は、まったく無知無能な自分が圧倒的に強い全知全能の(と幼児には見える)女に全面的に依存し支配されているという屈辱的状況である。これが男の人生の出発点なのである。男なら誰でも、抑圧しているにせよしていないにせよ、心の奥底に深刻な女性恐怖を持っていると考えられうが、その起源はここにある。そして、このような状況のなかで男の子は不能であった。

 これはどういうことかというと、男の子の心のなかで不能状態と女の支配とは結びついており、したがって男は不能を克服し性能力を獲得するためには、女の支配を打破し、逆に女を支配しなければならないということである。男が女を支配したがるのは、威張り散らしていい気分になりたいというような単純な理由からではなく、女を支配しないと不能状態から脱出できないという、深刻なというか、哀れというか、とにかく追いつめられた事情があるためであると考えられる。実際、地位とか身分とか才能とか何らかの点で自分より上の女、敬意を払わざるを得ない女、支配的な強い女などに対しては不能になる男がいるが、そういう女は彼にかつての全知全能の母親と、その支配下にあって不能であった幼児の自分を思い起こさせ、女性恐怖を甦らせ、彼は、獲得していた性能力を失って不能状態に逆戻りするのである。

 確かにこれがフロイト - 岸田秀的な言い方としては理解はできるのだが、しかしそもそも「男の子」として現れるということはどういうことか、ということが欠けている。母親に「男の子」として望むことなのはまず不能なのだ、ということを忘れている(変な話だが、去勢恐怖とは母親の欲望が現前した恐怖ということが出来るかもしれない)。言い換えると、子供は既に「母親(=他我)が欲すること」を受け入れ、自分が不能であることを選ぶことによって、やっと母親の前に「男の子」として現れる、ということを十分実践するが故に不能になる、とコシェーヴ的には言えるかもしれない。

 とりあえず、ここまではコジェーヴの本の最初の数ページによるものであるから、とりあえず改めて別の日にまた議論をすることにしよう。とにかく、男性の欲望の裏側には恐らく「不能」という問題がある。というより「不能を恐れる性」を、とりあえずは「男性」と名付けて良いだろう。だからこそ「興奮しつつ、興奮しない」という矛盾した態度を取り続けるわけだ。これはコジェーヴ岸田秀のどちらかが正しいかということではなく、恐らくここに男性性のコアがある。