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ダブルスタンダードについて、あるいはなぜ大人は汚いのか

 確か、ちくま新書の『満たされない自己愛』という本に書いてあったと思う。メモを紛失したので、正確な内容を提出することが出来ないが、人が怒る理由のトップは、不当に扱われたとか、あるいは無碍にされたとかそういうものではなく「ルール違反に対する怒り」ということであるということを説明していた。それが「本当の理由」かはともかく、意識にあがりやすい怒りというのはそういうもので、それは今宵「ダブルスタンダード」という言葉が頻繁に飛び交っているな、と思うのは統計的に裏付けのあることであるとも言える。

 前に、別の場所でスウィフトの『召使心得』について論じたことがある

 スウィフトがその本で書き出したのは、召使い達がズルをし、ズルを黙認する代わりに分け前を要求することで、ズルのネットワークが出来ていることであるというのが、その話の本筋である。ズルというのは、本来使えるロウソクを交換してちょろまかしたりする、といったようなことだ。この場合は「本来ならばロウソクは全部使い切ってから交換するべき。ただし貧乏で困ってるならばちょろまかしてもよい」という二重規則の話ということが出来る。

 その意味では、ダブルスタンダードとは、利害関係と党派性を形成するための方法であるということが出来る。だからこそ、私たちがダブルスタンダードに対して嫌な気持ちになるのは、実際は話が逆なのであって、むしろそこに利害関係と党派性が形成されていることを直感的に把握するからこそ、このような気持ちになるわけだ。

 だが、パスカルの皮肉である「田舎者だけが人を田舎者と呼ぶ(パンセ・五二)」を思い起こし、また利益をぶら下げれば人は動くという世知のことを考えれば、私たちは何らかの形で常に利害関係と党派性を形成しているということを内面化しているが故に、このような発想が出てくるといってもいい。

 そこで、この手の規則についての考察ならばスペシャリストであったカントの本を取り出すのが、ベタではあるものの、重要なことだろうと思う。ポイントは、カントといえば良く引き合いに出される定言的命法ではなく、むしろ仮言的命法である。(以降は岩波文庫版の『道徳形而上学原論』)

 仮言的命法というのは、直接的な定義で言うならば「我々が行為そのものとは別に欲している何か或るもの(あるいはそれを欲することが、とにかく可能な何か或るもの)を得るための手段としての可能的行為を実際的に必然的であるとして定義する」ものである。さらに註からも引用するならば、「作用する原因としての理性的存在者の原因性に関する諸条件を、結果と結果を生ぜめるに十分であるという点とについてだけ規定する」とする。普通のカント入門書を開くと、この辺りは、たとえば「もし○○ならば、☓☓をするべし」というような命題であるということができるだろう。

 仮言的命法の目的は、とりあえずは「幸福を求めようとする意図にほかならない」としているわけだ。例えば、典型的な話としては「困窮して金を借りねばならなくなっている。彼は他日その借金を返済できないことを自分でよく承知している」という場合だったりする。この場合、「本当に自分が困っている時ならば、嘘をついてもよい」という話であるのたが、私はカントがこの「幸福を求めようという意図」が当てにならない理由を興味深く思ったりする。それは引用するならば次のようになる。

 目的〔の達成〕を欲する人はまた(理性に従って必然的に)この目的を達成するために彼が自由に使用できる最上の手段をも欲する、と。しかし実際には、幸福の概念が甚だ明確を欠くところから、およそ人間は誰しも幸福を獲ることを望んでいるのにも拘らず、彼が真に希望しかつ欲するところのものがなんであるかを、明確にまた彼自身の真意に即して言い現すことがどうしでもできないのである。その理由は――第一に、幸福という概念に属するいっさいの要素はすべて経験的であって、これを経験に求めねばならないからである。第二に、幸福という観念をもつには、私の現状の状態およびおよそ将来のいかなる状態においても、考えられ得る限りの幸福の絶対的全体、すなわち最大限の仕合せを必要とするからである。(p.79)

 私は学者の訓練を受けていないので、勝手に解釈するしかないわけだが、この一文に私が興味を引かれるのは、カントが述べていることが「人間は幸福について知らなすぎる」ということではなく、「人間は自らの幸福を自覚するほどには、自身について何も知らない」という風に言っているようにも思えるからだ。

 例えば、クレタ人のパラドックスを考えてみよう。実際のところ「クレタ人はウソつきだ」という言明自体は、実はパラドックスでもなんでもない。なぜなら、これ自体は検証可能なものであるからだ。この言明をした人間を除く、クレタ人一人一人の過去の言動を調べてみれば、いつかは「クレタ人がウソつきかどうか」は真偽可能である。しかし、問題はクレタ人の発話主体が呼び出された瞬間に、この言明自体の真偽が不可能になるように見えるということがポイントなのだ。言ってしまえば、眼球がその観察主体を死角化する(良く言われるように、眼球は自分自身の頭を見ることはできない)ように、言語にもこのような死角性がある。

 このように考えていったとき、仮言的命法は次の言葉にいきつく。それは「もし私ではなければ、☓☓をするべし」という言明をするという言い方もできてしまう。そして、これが言葉の死角性なのであり、もっと言ってしまえばイデオロギー(観念)でもあるということができる。その痕跡は、カントの本には下のように残っているということができる。

 ところで年少の頃には、さきざき我々の障害にどんな目的が現れるか知れたものでないから、両親はとりわけ自分の子供達にさまざまなことを学ばせ、これからさき彼等にどんな目的が表れようとも、その目的を達成するための様々な手段を使いこなす熟練を仕込もうとして、いろいろ心を砕いているのである。それにしても子供がいつかは自分の目的をもつだろうということは、いずれにせよあり得る。とにかく両親のこういう心遣いが非常に大きいところから、両親はそれにかまけて、子供たちがいずれは彼等の目的にするかも知れないと思われるようなものの価値を彼等のために判断してやったり、或いはまた彼等の判断を修正してやったりすることをなおざりにしているのが通例である。

 明確に、家族という舞台が、いわば社会の自明性を教え込み、内面化する装置としてありうるとするならば、そもそも私たちの判断自体は、既に仮言的命法によって侵食されているということが出来る。子供の頃に「早く寝なさい」と言われながら、両親が夜ふかしをしていることに不満を持たなかった人、あるいはそれに類似する体験をしたことがない人はいない筈だ。言ってしまえば、大人は汚いということになるのだが、大人が汚いのは、彼らが仮言的命法的であるからだということができるが、しかしだからといって、子供は定言的命法として生きることもできない。

 最後に、ここにアルチュセールの言葉を引用して終わりにしよう。『アルチュセールの〈イデオロギー〉論』に収録されている「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」には、次のようなことが書かれている。

かくして、イデオロギーの外で(より正確には往来で)生じていると思われることは、実際にはイデオロギーの中で生じている、ということを付け加えることができる。したがって、現実にイデオロギーの中で生じていることは、イデオロギーの外で生じているように思われるのである。それゆえイデオロギーの中にいる人々は、当然イデオロギーの外にいると信じている。つまりイデオロギーイデオロギー的性格を、イデオロギーによって実際に否定することは、イデオロギーの効果のひとつである。すなわち、イデオロギーは決して《私はイデオロギー的だ》とは言わないものである。(まったく例外的な場合にしろ、一般的な場合にしろ)あたしはイデオロギーの中にいるとか、私はイデオロギーの中にいたと言いうるためには、イデオロギーの外に、すなわち科学的認識の立場に絶たなければならない。完全に衆知のことあだが、イデオロギーの中にいることへの非難は(本当にスピノザ主義者かマルクス主義者でない限り――この点では、全く同じ立場をとっている)他人にとってしか意味がないのであり、当人にとっては何の意味もない。このことは、イデオロギーは(イデオロギーにとっては)外部をもたない、しかし同時に(科学や現実にとっては)イデオロギーは外部にしか存在しない、ということと同じである。(p.88)