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「認知の歪み」のことだけ考えてもどうにもならない

 スピノザは『エチカ』において「誤った観念が有するいかなる積極的なものも、真なるものが真というだけでは、真なるものの現在によって除去されはしない」と述べている。これは複雑ではあるが、この一文(スピノザは定理と呼んでいるが)の備考によれば、この一文の意図は「太陽を観る場合、それが我々から約二百フィート隔たっている」と観えたとして、その実際の距離が解ったとしても「約二百フィート離れて観えている」ということは除去され得ない、という話をしている。要は錯覚は事実とは別に、そのまま維持されるということを述べているに過ぎない。

 この話を持ち出したのは、私の頭の面倒を見ている主治医と話をしたときに「認知療法」の弱点みたいなことについて、参考になる話をしてくれたからだ。

 その医者によれば、認知療法の具体的な問題点とは、正しい認識をすれば、苦痛が取り除かれるとされる。だが、しかし苦痛というのは反射的、あるいは身体的なものであるという側面もある。そのような身体的な苦しみに関しては、認知療法でいくら「正しい」認識に修正したとしても、そのような激しい痛みは取り除くことが出来ない。むしろ、激しい痛みと居損しようとする森田療法のほうが、より有効なアプローチになると、おっしゃられていた。

 例えば『はじめての森田療法』(講談社現代新書)の北西憲二は、認知療法森田療法の違いについて、次のように説明している。

認知療法森田療法と一見すると似ています。ここで混合されないよう違いを述べておきましょう。認知療法では、不安や抑うつを引き起こす思考のゆがみ(クセ)を合理的なものに帰ることから、不安、抑うつをコントロールしようとする治療法です。対して森田療法では、不安、抑うつをありのままに受け入れていこうとする柔軟な思考(心の態度)を身につけ、そしてその人の持つ生きる近るを生活の場面で発揮することを目指します。受容(アクセプタンス)モデルです。同じように思考のあり方を問題にしますが、その方向は一八〇度違います。また「生きる力」という考え方は認知療法にはありません。(p.69)

 私はただの患者であるが故に、専門的な部分はわからない。だが、西洋的なアプローチが、どうしてもこのような認知に依存しているという側面はどうしても感じることが多い。例えば、哲学の研究者によれば、デカルトが視覚的な喩えを使いすぎるといったように、そこには明らかに「認知優位的な」世界観というものが存在している。例えば、古典的な著作である、H.G.ウェルズの書いた『世界史概観・上』からそのような認識を引用することが出来る。  

原始人はおそらく、ほとんど児童が考えるように、すなわち想像的な絵の連続のような風に考えていたのであろう。彼は、想像によって心像をつくり出し、あるいは心像が彼の心に浮び、そしてそれによって起された感情に応じて行動した。子供や教育のない人は、今日でもそうである。(p.45)

 ポイントは「心に浮かび上がった絵が、感情を喚起させる」ところにある。従って、心に浮かぶ絵を修正する――言い換えれば、認知を変えれば――、感情もまた変化するという発想に基づいている。また、こういった認識に対して、正しい感情を結びつけ直すことこそが重要という形のアプローチになる。

 確かに、認知療法認知心理学によって、人間が持ちやすい誤りのパターンが取り出されてはいる。その知見はニュートラルな考えを持つためには重要である。これらがとりあえずは、それが前もって同意できるニュートラルな現実が存在するが故に、そのように歪みということができる。だが、そのようなニュートラルな現実というのが共同主観的に形成される以上、片方の人間の歪みが、また片方の人間の正常であるということもできるが、とりあえずその件については置いておこう。

 問題はこのような認知の連鎖が、そもそも身体的に――言い換えれば同時的に行われる側面もあるということである。

 例えば、私の場合であるならば、私自身の問題が原因で、彼女と壮絶な別れをしたときに、余りのショックの為に、その駅の周辺に立ち入ることが出来なかったことがあった。今でも、当時の彼女が住んでいた地域の名前を聞くと、若干嫌な気持ちになるのは否めない。これは認知の歪みではあって、当然ながら頭の中ではそのように地域性と彼女が住んでいるということが関係がないことは、頭ではわかってはいる。だがしかし、頭で解っていたとしても、身体が引きつるような痛みを覚えることになる。

 そこで、私たちはこのような痛みをなんとかしようとして、例えばSNSにその不快さを訴えたりするわけであるが、森田療法は、そのような痛みを「ありのままに」受け入れろ、と述べるわけである。「ありのまま」というと、なんだかスピリチュアル的にも感じるのだが、実際の「ありのまま」といえば、そのような苦しみも、怠け心も、全てそのままにしておきながら、出来る行動をやるということであって、決して楽なことではない。

 実際のところ、人間というのは認知の歪みというのに対して自覚的であり「頭の中では解っているのだが……」という状況のほうが多い。しかし、そのような正しさを前にして、身体が拒絶したり、感情が拒絶するということがある。それは全く持って人間の本性に埋め込まれているものあり、それが人間の自然な姿であるということも可能ではある。

 問題は、今宵の課題のように、それを疎外されたものとして――つまり、本来そうであるべきではないとして――何とか追い返そうとするよりも(というより、このように追い返さなければいけないということが、恐らく強迫的な悪循環につながっているはずだから)、それを自然性として、それと如何に共存するべきなのかという知恵のほうが遥かに重要なのだろうとは思う。