1994年の『社会学辞典』から「搾取」という言葉を調べる
つい最近、死去なされた社会学者の見田宗介が編集委員となって発刊された『縮刷版・社会学事典』が手元にある。今となっては時代背景もあり、古臭い説明も多いのだが、しかし同時に現代的な説明ではないが故に、はっと見開かされることがある。例えば、「搾取」という言葉を引くと次のような言葉が載っている。
階級社会において、生産手段を私的に所有する支配階級が、直接生産者たる被支配階級に対し、かれの生存に必要な労働生産以上の余剰生産物を生産させ、これを領有することである。資本主義社会では、自己の労働力を商品として売る賃金労働者の余剰労働の成果(絶対的余剰価値ならびに相対的余剰価値)を領有する形態をとる。
この記述は非常に退屈なものではある。なぜ退屈かといえば、いわば教科書的なマルクス主義の用語であるからだ。しかし、次に続く言葉は非常に興味深いところである。
ところで、人間が全面的に発達し成長していく際の基盤となる教育や家族の領域にまで資本の論理が浸透し、精神的活動やその成果さえもその論理に貫かれた「機能的」な関係に包摂されていく自体の進行は、現代的な搾取の形態として、いわば文化的搾取として位置づけられる性格をもっている。
確かに今となって不思議なのは、人間の活動形態において「資本の論理」というものが、あまり意識されない点にあるということにあるだろう。では、資本の論理とは何か。そのヒントというのが、マルクスの『資本論』(岩波文庫,向坂逸郎 訳)に置いて書かれている文章にあるように思う。
労働力は、ただ生ける個人の能力として存するのみである。したがって、その生産は、彼の生存を前提とする。個人の生存を与えられたものとすれば、労働力の生産は、彼自身の再生産または維持である。彼の維持のために、生ける個人は、一定量の生産手段を必要とする。労働力の生産に必要なる労働時間は、かくして、この生産手段の生産に必要なる労働時間に解消される。即ち労働力の価値は、その所有者の維持のために必要なる生活手段の価値である。だが、労働力はただその支出によってのみ実現される。(p.297)
ここで今回の論旨で指摘しておかなければいけないのは、いわば私たちは労働するためには、その労働力を再生産しなければいけないということだ。そして、それを売り買いすることによって初めて(簡単に言えば、労働にでかけて初めて)その維持に必要なお金になるということだ。
私たちはなんとか再生産できなくなるまで壊れないように、修復しながら日々を生きていかなければならない。そこで、一つの再生産の方法として「性」が駆動される、ということは指摘されてもいい。問題は、このようにして生存の維持のために払われる労働力と、その労働力を維持するための経済活動という循環の中で、「性」が組み入れられているという事実を「性的搾取の表現」という指摘自体が覆い隠してしまうという側面にある。
もう少し踏み込んで、真木悠介(見田宗介氏の別名であるが)の『気流の鳴る音』に書かれた文章を引用してみよう。
われわれが他者と関係するときに抱く基本の欲求は、二つの異質の相を持っている。一方は他者を支配する欲求であり、他方は他者との出会いへの欲求である。操作や併合や利用や契約は、もちろん支配の欲求の妥協的バリエーションとしてとらえられうる。
支配の欲求にとって他者とは、手段もしくは障害であって、他者が固有の意思をもつ主体として存在することは、状況のやむをえぬ真実として承認されているにすぎない。(p.201)
問題は「状況のやむをえぬ真実」ということが、その指摘を素直に飲み込むことを邪魔しているということにある、という事が可能である(いや、状況は遥かに悪いかも知れない。なぜなら、他者が固有の意思を持つという自体すらも否認してまうほど「状況のやむをえぬ真実」が覆い隠しているとも言えるからだ)。
コロナ禍でリモートワークが徐々に浸透してきたとはいえ、過剰な満員電車の存在が労働者の単一性を表現したのは間違いない。たとえ資本主義が終わらなくても、本来は月曜日の憂鬱のさいに、今日は出社するのが嫌だなと思ったら、会社とは逆方向の電車に乗り、海を見て波の音を聞いて過ごすことができるほどの労働への多様性もまた求められていたはずのような気はしているのである。