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ライオンは立派だが、狼はやっぱり悪党だ

 良く知られていることであるが、グリム童話はグリム兄弟によって集められた昔話が元になっている。しかし、その昔話というのが、いわば上品な方々が顔を顰めるものであったため、版を重ねるごとに改修されていき、いわば元の話とは似つかぬものになってしまった、とも言われている。私たちが手にする童話といった類のものは、まずは「親御さんが子供の教育に良いと思うもの」というイメージがあるためか、そのようなイメージを裏切るという意味で、一九九八年に『本当は怖いグリム童話』がベストセラーになっている。

 そのように「子どもたちに読み聞かせるもの」みたいなイメージが高い、そのような童話というのは、元はといえば寓話から着想を得ている。教訓のある話は、まずは子どもたちに聞かせるものだ、というわけだ。だが、子どもたちが単純に教訓だけを受け取っているかどうかは疑わしい。単純に、誰かが酷い目にあっている様子を見て、ケラケラ笑っているという可能性だってある。そういう話を人間で書けばグロテスクではあるが、動物で書けば雰囲気も和らぎ、滑稽さが強調される。

 もはやウクライナ侵攻によって、ほぼ悪者のイメージがついているロシアの作家の寓話集である『クルイロフ寓話集』(岩波文庫)を読んで考えていたのはそういうことである。この作品が雑誌に掲載され始めたのは、一八〇八年だそうだ。だが、このクルイロフそいう作家は、どちらかというと風刺作家の側面を持っているようで、寓話集を読んでみると「教え諭す」というよりも、社会についての教訓にならない身も蓋もない現実に書いたものが多くあることに気がつく。

 解説によれば、この寓話を書いているときには、反政府的なことを書かないようにと監視役が立てられていたらしく、幾つかの作品は雑誌にはのらず、あとから収録されたものもあるらしい。例えば「斑の羊たち」は、その典型的な例となる。  

 ライオンが斑の羊たちに嫌気がさした。この羊たちをあっさり殺してしまうことは、ライオンには造作もないことである。しかし、それでは法にそむくことになる。ライオンが森で王冠を戴いているのは、民を抑圧したり、民に制裁を加えるためではない。しかし、斑の羊を見るのは我慢がならなかった。どうしれば斑の羊たちを始末して、しかも世間体を保てるだろうか?そこでライオンは、熊と狐を呼んで意見を求めた。斑の羊を見るたびに、一日じゅう目の具合が悪くなり、そのうちに完全に視力を失うことになるだろう。どうすればこのような災害を免れることができるのかさっぱりわからない。とこっそり彼らに打ち明けた。熊が眉をしかめて言った。

「権勢並びないライオンさま!このさい、何の必要があって議論を重ねるのですか?羊どもを絞め殺すよう即刻お命じください。やつらを不憫に思う者がいるでしょうか?」

 狐はライオンが眉をひそめたのを見て、謙遜して言う。

「ああ、王よ!われらの善良なる王よ!あなたはおそらく、このあわれな生き物を迫害することを禁じられ、理由のない血は流されないでしょう。失礼ながら、わたくしめが別の助言させていただきます。母羊にとっては、飼料の豊富な、子羊にとっては、飛び跳ね駆けまわることのできる牧草地をあてあがうようお命じください。そして、当地では羊飼いが不足しておりますので、羊どもの放牧は狼にお命じください。なぜかは存じませんが、斑の羊の一族はひとりでに絶滅するように思われます。それまでは楽しませてやればよいのです。そうすれば、何が怒りまして、あなたさまにはかかわりのないことでございます。」

 会議では狐の意見が通って、首尾よく実行に移され、あげくのはて、ここでは斑の羊だけではなく、単色の羊までも減ってしまった。これにたいしで、獣たちのあいだではどんなうわさが立っただろう。

 ライオンは立派だが、やっぱり狼は悪党だ。

 興味深いことに、このクルイロフ寓話集には、このように善良な動物が、不条理ないちゃもんを付けられて酷い目に合わされるという寓話についで、もう一つのパターンを載せている。

 子羊が暑い日に水を飲みに小川にやって来た。困ったことが起きるにちがいない。飢えた狼が、獲物を求めてちかくを うろついていたのだから、子羊を見て、狼は獲物をめがけて突進する。それでも、自分の行為にもっともらしい口実や意味をあたえようと、わめき立てる。

(以下略)

「わたしが、どんな悪いことをしたのでしょうか?」

「だまれ!おれは聞きあきた。おれにおまえの罪を調べているひまがあるか、青二才!おれが食いたいという理由でおまえは罪があるんだ。」

 他の点で、このパターンが興味深いのは、いわゆるポルノグラフティにおいても、このような本人たちがこのようにやりたいという欲望を、受動的なもの(「あなたがそのようにさせるから、仕方なくやるのだ」)に変換させるという操作がちらほら見えるのである。このような話が二百年前に書かれているとするならば、むしろ「能動的な欲望を受動的に享受する」という形式自体が、一つの権力の発動形態として、良くある形態であるということができるだろう。どんな横暴な暴君であれ「あいつが気に食わないから、とっちめてやれ」だけでは上手くいかず「あいつが気に食わなくて、かつあいつは悪いやつだ。だからとっちめてやれ」というのが、権力の発動条件として成立しているという側面を考慮しなければいけない。

 従って、例えば特に現代において「いじめ」と呼ばれるものの多くに「そうはいっても、いじめられた奴も悪いやつなんだよ」という言い分が出てくるが、しかしそれこそが、そもそそういった暴力のトリガーになっているという側面は明確にある。アメリカのアフガン侵攻も、テロとの戦いであったわけだし、ロシアですら、彼らのウクライナへの侵攻の理由は「非ネオナチ化」であったことを思い浮かべればわかりやすい。

 少なくとも、私はこの手の寓話に対し、まだ教訓を与える自信はまったくない。