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内田樹の「アメリカン・ミソジニー」という文章について

 私は内田樹というエッセイスト(本来ならばレヴィナス研究者という肩書のほうが適切ではあるが、いわば文章としてはこちらのほうが適切な書き方になるだろう)の文章をたまに読んだりする。それは内田樹の文章が、ときどき、限りなくヘンなことがあるからだ。そして、おそらくそのヘンさというのは、立ち止まって考えさせるための内田樹的な文章的戦略を狙っているのだろうから、敢えてそこに乗っかってみるのは必要なことだとは思う。

 で、しばらくヘンな文章というのは何かというと、文春文庫『映画の構造分析』に収められた「アメリカン・ミソジニー」という文章である。この文章の立ち位置は、自分から説明するよりも、本人が書いている文章を引用したほうが早い。

 アメリカン・フェミニズムというのは、「アメリカ男性のアメリカ女性に対する憎悪をさらに強化するためにアメリカ社会全体の暗黙の合意のもとに形成された呪鎮のイデオロギー」ではないかと私は疑っているのであるが、この仮説に共感してくれるひとはたぶん日本の知識人の中には五人くらいしかいないであろう。だから、この賞をお読みになった方が私の仮説にまったく同感できなくても、それはきわめて正常かつ健全なリアクションであるので、何ら心配されることはない。(p.236)

 ではこのように解説に書かれた文章においての中核となる主張とは何かというと、恐らく次のような文章になる。

 女性嫌悪の説話原型が、ハリウッド映画の現場に、フロンティアを失った開拓者たちが流れ込んで来たときに定着したということが証明されれば、女性嫌悪が西武開拓者的エートスのうちに根ざしているという私の仮説もそれなりの根拠があるということになる。しかし、とりあえずは「思いつき」のままでよい。私が指摘したいのは、ただ「男だけの集団」に「希少性ゆえに決定権を持つ女」が侵犯してきて、男たちの「ホモソーシャルな集団」の安寧秩序を乱し、多くの男に「選ばれなかったトラウマ」を残したために、「選ばれなかった男たち」が女の悪口を言って、その傷跡を癒やすという自己治癒の物語が、ほぼ二世紀にわたってフロンティアの全域で繰り返し語られたはずだ、ということだけである。(p.229)

 この文章が奇妙なのは、今から考えるとこの論旨が痛いほど良く解るからだ。そして、それがよく分かるということ自体、その解説当時に書かれたことから考えれば「異常事態」ということでもある(もちろん、知識人の五人にしかわからないことが、私のような「大衆・亜インテリ」の大半には解る、という自体は普通にありうる事態ではあるのだが)。少なくとも、内田樹の文章には同意しないが、しかしその主旨や問題意識は解るという人は幾らでもいるように思う。

 この文章が私にとって奇妙に見えるのは、言ってしまえば明らかに時代の断絶を感じるからだ。というのも、この文章が書かれた当時というのは、本文で書かれているように「アメリカ文化が「世界文化」と同義」であり、であるが故に「世界のあらゆる文化にひとしく検知されるはず」であるということを「日本のフェミニズムたちに無批判に受け入れられている」という前提を元に書かれているからだ。

 ポイントとしては、この裏側には日本のフェミニズムはその前提を当たり前にしているが、それ以外の人達にとってはその前提は当たり前ではない」ということが含意としてある筈だ。だからこそ「日本の知識人の中には五人くらいしかいない」という文章が解説に書かれたのであろうと思う。そして、この裏側には(明らかに深読みである、と言い訳しつつ)「日本の知識人の中には五人しかいないが、街場の人々には同意してくれる人がたくさんいるだろう」という意見が含意されいるように思う。

 実際、私自身は内田樹さんの「アメリカン・フェミニズムというのはアメリカ男性のアメリカ女性に対する憎悪をさらに強化するためにアメリカ社会全体の暗黙の合意のもとに形成された呪鎮のイデオロギー」を半分くらい認めても良いように思う。だが、しかしこの文章は、このように「女性がフェミニズムであることによって、男性の女性に対する憎悪が増幅される構造は、元々はアメリカ固有の問題だよ」という意図をこめているようにも感じる。

 だが、この文章がどのような意図をもってして書かれたか自体はあまり意味がないことではあって、わざわざこのような文章を取り上げたのは、今宵の「フェミニズム/アンチ・フェミニズム」の議論について、以下のような問題提起をしたいからである。

  • フェミニズムを主張することによって、男性が女性への憎悪を強化する」という構造がアメリカ固有の呪鎮のイデオロギーだと仮定した場合、それが日本でも同様の構造が認められる場合、それ自体がアメリカの反復であるとも言えるのか?それとも、この構造は「アメリカ固有の呪鎮のイデオロギー」を超えて人類全体の「呪鎮」と関わっている可能性はあるのか?

 もちろん、フェミニズムからすれば大本の「女性嫌悪」を無視して何を勝手なことを、と言うのは全く正しいことではある。ただ、一つあるとするならば、内田樹が「起源」に対して知的関心を持つとするならば、ある前提を受け止めた場合、それがどのように変節するのかという「過程」に知的関心があるとも言えるタイプではある。

 だから、例えば「グローバリゼ―ション」とは、アメリカの「ローカル・スタンダード」を「世界標準」にしようとする価値観であり、それに「知的抵抗が組織なされなかった」ということに不思議がるのはわかるのだが、しかしそのような感染力、あるいは感染の結果、なぜそれが日本でも見られるようになってしまったのかという「起源の過程」みたいなものが、恐らくこの問題には必要なのかもしれない、と同様に思ったりするのである。