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 古典を読んでいるときに露骨な偏見やら、穿った意見が出てきて妙な気持ちになることがある。最近の例でいうと、モンテーニュの『エセー』を読んでいたときに、次のような文章が出てきて、なにやら不思議な気持ちになったりていた。(以下の引用は、岩波文庫の二巻、『第二章 第三章・ケオス島の習慣』からの引用である)

 良心に対して加えられる暴力のうちでもっとも避くべきものは、私の考えでは、婦人の貞操に対するb法力であると思う。そこには自然にいくらかの肉体的快楽がまじるからである。また、そのゆえに、婦人の拒否も完全ではありえないし、その暴力には婦人の側からの多少の同意がまじるように思われる。ペラギアとソフロニアは二人共、聖女の列に加えられているが、前者は数人の兵士の暴行を避けるために母と妹たちとともに河に身を投げ、後者も皇帝マクセンティウスの暴行を逃れるために自殺した。教会の歴史は、暴君どもが良心を辱しめようとしたのに対し、死をもって身を守った心身の厚い婦人たちのこのような多くの実例に敬意を表している。

 現代のある博学な著者、しかもパリ市民である著者が、今日の婦人たちに、こんな捨て鉢なすさまじい決心をしないで別な方法をとるようにと説得につとめたことは、おそらく将来、われわれの名誉となるであろう。私は、トゥルーズで聞いたある女の言ったうまい言葉をこの著者が知らずにいて、物語の中に加えることができなかったのを残念に思う。この女は数人の兵士の意手に渡って、こう言った。「ああ、ありがたいことだ。せめて一生に一度だけでも罪を犯さずに堪能できたのだもの。」(p.263)

 このような一種の安っぽいポルノみたいなことを書き残しておいたのか、と首を傾げるのだが、しかしこのような身体構造の違いというのは躓きの種になりやすいようで、例えば過去にも引用した岸田秀の新書(『性的』にも、下のような一文が書いてあったりする。

 男の性欲が単純明快なのは、男の子においては男根が性器期における性器となるので、男根リビドーはそのまま順調に性器リビドーに行こうし、男根期の性欲の形をそのまま持続すればいいからである。それに反して、女の性欲はないと言われたり複雑怪奇でよくわからないと言われたりする。謎だとか暗黒大陸とか言われることもある。女の性欲が、男の性欲ほど単純明快でなくはっきりしていないのは、女は男根を膣に入れるという能動的な形の男根期の性欲を、性器期において膣に男根を入れられるという受動的な形に逆転しなければならず。その逆転は、挫折感、劣等感、屈辱感が伴うので、なかなか順調にはゆかないからである。言ってみれば、女は男としての性欲を形成しかかっていたのだが、それが遮断され、かといって、女としての性欲もうかく形成されないのである。女が性器性欲をもつだためには、男根リビドーをいいわば膣リビドーに変えなければならないが、この過程がうまくいゆかない。そのうまくゆく程度というのか、うまくゆかない程度というか、それが個々々々で違うので、ますます複雑になる。膣は男根の単なる受け入れ器官とみなされ、性器性欲の座となることが妨げられることが多い。(p.26)

 この手の「性器信仰」には少なくとも慎重にならざるを得ないが、ここには明確に精神分析が非科学的でありながらも、参考にするべき一つの洞察がある。それは「男性と女性は、その性欲の構成が根本的に違うのではないか」ということである。念の為、書籍にもなった斎藤環『生き延びるためのラカン』の第十四章「女性は存在しない?」も引用しておこう。

 ラカンによれば、性的な享楽は、すべてファルス的享楽ということになる。そしてこれは、さっきも言ったように、男性的な享楽だ。じゃあ、女性的な享楽はというと、そこにはファルス的な享楽という側面もあるけれど、もう一つの側面、つまり「他者の享楽」という要因も大きいのだという。この「他者の享楽」ばかりは、男性原理ではどうしても理解できない領域だ。どういう種類の享楽かは、あとでちょっとふれる。ただ、俗にも女性のオーガズムの方が男性よりも深くて長いなどという話があるけれど、それはこういう享楽のあり方を指すのかもしれないね。ひとついえることは、男性的な享楽はファルス的な享楽というくらいだから、能動的で、そのおよぶ範囲も限られている。でも他者の享楽は、もっと受け身で、深いレヴェルに届く。そういう違いがあるというべきかな。そしてラカンによれば、女性はそういう享楽を経験はするけれども、それについては何も知らないということになる。

 多くの場合、説得をするさいには人間の対称性を前提にしていることが多い。人間の対称性とは即ち「私の考えていることは、また相手も同様に考えることができる」という前提である。しかし、この状態は欲望のレベルでは当てはまらない可能性がある。そのような直感を、なんとか科学的に説明しようと、例えば男性脳やら女性脳だとか、そのような話は定期的に話されるが、どのように構造化されるかはともかくとして、そこに性差があるということ、言ってしまえば「人間は欲望という意味では非対称である」ということ、即ち「男性的な欲望の仕方と、女性的な欲望の仕方は違う」という問題に行き着く。であるが故に、例えば女性が不愉快に思う描写を「そのまま」性別を入れ替えてミラーリングしても、それがうまく当てはまらないのはそのせいであったりするのは、この辺りについてお互いが勘違いしている理由でもあろうと思う。そして、政治的なイデオロギー批判が、精神分析と合流するのは、まさにこのような欲望 / 利害の非対称性について、非常に示唆的であるからだろう。