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真実を口にすれば嫌われる

 つい最近、『サミング・アップ』(モーム)を読んでいたのだが、そこに興味深い一節があった。

もし真実が最高の価値の一つであるのなら、真実がなんであるのかが誰にも正確に分からないというのは奇妙だ。哲学者は真実の意味に関していまだに争っていて、対立する学説の信奉者はお互いに皮肉ばかり言い合っている有様だ。こういう状況にあっては、素人は哲学者に議論させておき、素人なりの真実論でよしとするしかない。私の意見はこうだ。真実とはそれほど大袈裟な価値ではなく、個々の存在物について何事かを主張するに過ぎない。ただ事実をそのまま述べるだけである。もしこれが価値だとすれば、これほど無視されている価値はない。倫理学の本は、真実を発表しないほうが適切な場合を長ったらしいリストにして挙げている。こういう本の著者は、そういう面倒なことをわざわざするまでもなかったのだ。というのは、長い歳月の知恵は昔から、「たとえ真実であっても、自分の知っていることを喋ってもいいとは限らぬ」と教えているからだ。人間は自分の虚栄心、快適さ、利益のために真実を犠牲にしてきた。人は真実ではなく偽りによって生活している。私は時どき思うのだが、いわゆる理想主義とは、人が自惚れを満足させるために作り出したフィクションに真実の威光を与えようとする努力に過ぎないのではなかろうか。(p.321)

 本書において、モームは皮肉屋の芸術家である、みたいなことを繰り返し主張していて、本人の自己申告通り、皮肉屋で芸術家のような意見ではある。

 だが、この一文は、我々にとって真実に対する「真実」について、一つ示唆していることがある。

 それは端的に言えば「真実であっても、喋ってもいいとは限らぬ」ということである。

 しかし、なぜ「真実」について、喋っていいとは限らないときがあるのだろうか。それは直接説明するよりも、例えば、レヴィ・ストロースが『悲しき南回帰線(悲しき熱帯)』に収録されている名前の話を出すほうが良いかもしれない。

ある日、わたしが子供たちの一団と遊んでいたとき、女の子の一人が仲間に打たれた。彼女はわたしの側へ逃げて来て、いかにも秘密だというように、耳許へ何か囁きだした。わたしは何のことかわからなかったので、何度も聞き返さないではいられなかった。すると、喧嘩相手にその策略を読まれてしまって、相手は目に見えて怒り出し、今度はその子がどうもその厳粛な秘密らしいものを暴露しに来た。そしてわたしは少し手間どったり、聞き返したりしているうちに、その事件の鍵を完全に握ることができた。最初の女の子は復讐しようとして相手の名をわたしに教えに来たのだ。相手はそれに気づいて、同じやり口でもう一人の名をわたしに知らせた。このときから細かい心づかいを欠いたことではあるが、子供たちをお互いにけしかけて、彼らの名を全部手にいれることも容易になった。その後には、こうしてちょっとした同じ穴のむじなというか、彼らも悪いことをしたのであるから、大した困難もなく、子供たちから大人たちの名を聞き出すことができた。すると、大人たちにわれわれの秘密集会がわかって、子供たちは叱られ、わたしの情報源は涸れてしまった。(講談社文庫, 室淳介, p.123)

 この話が興味引かれるのは、それがいわば迷信から発したものであれ「真実は人を傷つけるために使える」ということだろう。例えば、あるコメディアンが誰かの病気について揶揄する場合、病気という部分については全く持って「真実」である。しかし、このような「真実」というのは傷つけてしまう。

 そこで、二つの態度が出てくる。

 その一つは「真実は人を傷つけるのならば、誰も傷つけずにおこう」とする態度。もう一つは「真実は人を傷つけてでも、言うべきだ」という態度である。

 いわゆる思想家のフーコーは、このような真理の言明について「パレーシア」という概念に着目する。論文によれば、パレーシアとは次のような定義になる。

まず,パレーシアという語の意味を確認しておこう。パレーシア parrêsia は,「すべて」 を意味する pan と「言われたこと」を意味する rêma という二つの語から作られており,「すべてを言うこと」という意味で使われた。言う主体のことは,パレーシアステース parrèsiastês と呼ばれる。これらの語は紀元前五世紀から後五世紀に至るまで,ギリシア,ローマ,初期のキリスト教の時代を通じて使われ続けた。

 次にフーコーは「パレーシア」の条件について検討している。まず一つには「真理を言うのには、何らかのリスクが伴うこと」。もう一つは「真理を語るためには、受け手にも喋り手にも勇気が必要である」ということだ。

 論文においては、それがどのような意図を持っているかはわからないが、少なくとも「すべてを言うということ」は「真理全体の命題」、つまり「傷つけるもの/傷つけないもの」を洗いざらい喋るということは、直感的には理解できる。そして、さらに重要なことは「真理によって傷つく準備をしなければならない」ということも意味している。

 もちろん、このようなものは、マイノリティの人々が多く傷つけられる機会を持ってしまう以上、簡単に採用していいというわけではない。しかし、やはり「真理が人を傷つけるもの」という前提がある以上、勇気を持って「真理を語ることで傷つける人」と「真理を受け取ることで傷つけられる人」という役回りの人が必要ではある。そして、その準備があって初めて、私たちは「真実」に触れられるという側面もあるということは、ここにメモしておこうと思う。