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防御は最大の攻撃

 私は二年前ほど、文章修行だと言わんばかりに、図書館に毎日出かけては、一生懸命ノートを取っていたことがある。久しぶりにそのノートの一つであるスローターダイクの『シニカル理性批判』を取り出して眺めているのだが、本の実際にその根拠というか論旨というものがどういうものだったのか、というのを思い出すのが難しくて、余り良いものではないなという感想を覚えてしまう。

 とはいえ、本書の書き抜きをさらっと読んでみると、そもそもそういう根拠のある論旨というものはなくて、元々構成的に通史として書かれてはいるが、資料を用いて自身の偏見を爆発されている本だとも言えなくはないのかもしれないと思ったりもする。

 例えば、次の引用はそういったものであろう。

われわれの頭の中を渦巻く情報洪水、そこに取り柄のひとつも見つけてやろうというのなら、その徹底した敬虔主義と自由「市場」の原理を讃えねばなるまい。見ようによっては、現代のマスメディアには、啓蒙と密接に繋がる機能すら備わっていると言えなくもない。一切を呑み尽くす際限のない経験主義……、存在全体に向けられた哲学の視線を習得することによってメディアも哲学に倣うのだ。ただ概念によってではなく、エピソードによって全体を眺める点が違うだけである。情報が送り込まれるわれわれの意識の中では、とてつもなく巨大な同時性の殿堂が出来上がる。西に食べる者あれば、東に死ぬ者あり。南に拷問される者あれば、北に別れる有名人のカップルあり。片や シカゴボーイズの経済理論あり。右にポップコンサートに数千人が酔いしれば、左に何年間も見つけられることもないまま居間に横たわっていた女の死体あり。一方でノーベル化学賞に物理賞、平和賞が授与されるかと思えば、他方では二人に一人しかドイツ連邦共和国の大統領の名前を知らない。片やシャム双生児の切り離しが成功したかと思えば、片や二千人を載せた列車が川に突っ込む。こちら俳優に娘が生まれれば、あちら政治的な実験に伴うコストの予想額が出てくる。五十万から二百万の犠牲で済むというのだ。二百万ドルではない。二百万人である。とまあ、これが人生です。すべての情報をご提供できます。前の物でも後ろの物でも、重要な件もくだらない事例も、流行もエピソードもすべて同列に並べられ、同列は同等に、同等は「どうでもよい」になってゆく。(p.308)

 『シニカル理性批判』がどんな本かといえば、教科書的に述べるとするならば、ギリシア時代の犬儒派(キニカルな人間)が、後々に如何にして体制順応的なシニカリストになっていくか、という事を論じている。キニカルな人間というのは、本書の言葉でいうと「一匹狼の変人、世界を挑発する頑固なモラリスト」であったが、現代のシニカルな人間というのは「自分の鬱の徴候を抑えて何とか仕事に関して有能であり続けることができる者たち」という違いがある。そして、シニカルさの目的が「仕事をすること」だとするならば、当然ながら弱点もそこになる(多くの反応は、ある意味ではこの手の商取引に対する危惧であり、彼らが「なんとか喰っていく」ということに対する攻撃に真面目になってしまうのも、そういうことである)。

 メモ書きを読みながら、色々と思うことはあれど、そのメモ書きに一環して現れるのが「自己反省」という問題である。例えば、第四章の「暴露のあと」というところには、このような書抜きが残されている。

知は力だから「別の知」の挑戦を受けた優位権力はどれも、知の中枢に留まろうとせざるをえない。しかしあらゆる権力が、どんな知に対しても中枢としてふさわしいわけではない。反省の知はその主体から切り離せないとなると優位の権力に残された唯一の方策は、自分に敵対する可能性のある勢力の主体を自己反省の方便から切り離すことである。ここに太古以来の「思想弾圧」の歴史の理由がある。これは人間に対する暴力ではなく、またありきたりな意味での事物に対する暴力でもない。それは知るべきではないことを知ってしまう恐れのある人間の自己経験と自己表現に対する暴力なのである。検閲の歴史とは要するにそういうことである。それは反省を抑圧する政治の歴史である。(p.90)

 私の周囲には、教育はそれほど受けてはいないが、確実に地頭の良い人間が集まる傾向にあって、そのような人達と茶を飲みながら雑談をするのだが、決まって彼らが言うのは「私がもう少し頭が悪ければ、もう少し幸せに生きられたのに」という愚痴である。

 私はその愚痴を聞きながら、全く持って不遜な言葉であるとは思うのだけれども(そんな疑問を持つ人間が本当に賢いのかと首を傾げることはできるわけだが)、しかし同時にこれは世間一般に対する良くある否定的な現実でもあるとも思う。それこそ『啓蒙とは何か』を書いたカントですら『道徳形而上学原論』で、次のように苦々しく書いている。

それにまた開発された理性が、生活と幸福との享受に専念すればするほど、人間としてますます真の満足から遠ざかるということも、我々が実際に見聞するところである。こういうことがあるので、理性の使用に長けた人達のなかには、心に或る程度のミゾロギーすなわち理性嫌悪の念を懐く者がたくさんある、――もしこの人達に自分の心境をありのままに告白するだけの正直さがありさえしたら、まさにこれが彼らの本音であるに違いない。つまり彼等は、自分が携わるところのものから得た利益をざっと見積もってみても、実のところ幸福を獲たというよりはむしろ辛労の軛を額にくくりつけたにすぎないことを知るのである。なおここで私が利益というのは、生活を贅沢にするためのさまざまな技術の発明から引き出された利便のことではなくて、諸学(学問もまたこの人達にとっては、知性の贅沢と見なされている)から得られた利益を指しているのである。そして結局は、自然的本能による指導だけに頼って、理性が自分の行状に甚大な影響を及ぼすことを許さないような低俗なたちの人々を軽蔑するどころか、むしろ羨むということにもなるのである。(p.27)

 本書も述べている通り「知ろうとする意欲は、元を辿れば権力欲から来る。発展や存在、性や快楽、さらに自己満悦を求め、死すべき運命を隠蔽する欲求から生じる(p.187) 」という意見を認めるとするならば、明らかに現世的な幸福を拒絶し、なおも自由であろうとするような知というのは、それこそ背理というものであろう。

 そこでよく知られている「攻撃は最大の防御」という世間的な紋切り用語があるが、それは知にも求められることであって、最近のベストセラーにおいて「知」は「武器」として語られているところからも明らかではある。しかし、この知を逆にしてしまえば「防御は最大の攻撃」ということであって、犬儒派の強みというのは、徹底した内省こそ最も攻撃的な側面を持ちうるということであろう。

 例えば、ディオゲネスがゼノンのパラドックスについての話は、そういう内省の一種の極地だと考えることもできる。ディオゲネスはゼノンが矢が止まっているということを論証したと聞いて、ディオゲネスはすぐさま立ち上がりくるくるとその場を周った。すると、周囲の弟子たちは素晴らしい反論だ!と拍手をした途端、ディオゲネスは弟子たちをピシャリと叩いて廻ったそうである。

 最後に犬儒派に関して好きなエピソードを引用して、今日の日記を終わりにしておこうと思う。それはテーバイのクラテスに弟子として、妻として付き添った、女性哲学者のヒッパルキアの話である。以下はリンク先からの引用である。

ヒッパルキアはクラテースと恋に落ち、想いがつのって、もしも彼との結婚を許してくれなければ自殺すると、両親に告げた。両親は、娘を思いとどまらせてくれるようクラテースに懇願、クラテースは彼女の前に立ち、衣服を脱いで、「これがそなたの花婿だ。財産はここにあるだけだ」と言った。案に相違して、ヒッパルキアは大いに満足し、クラテースと同じ衣服をまとって、犬儒者の生活を選び、夫とともにどこでも公的な場に現れた。

 犬儒派の逆説とは、それがいわば一般的に考えられているような帳簿的なつじつま合わせではなく「失うほどに最も価値のあるものを得る」というところにあるとも言える。そして、それは本書で書き付けているように「人生の決定的な事柄に対しては理論など持ちえないというのを叡智の最後の結論(p.169) 」ということを証し立てているようでもある。