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アプリケーションを「紙の比喩」から解き放つ

 説明するのは難しいが、何かしらの電子的な体験の話をすると、亡霊のように、何処からともなく「紙の比喩」が出てきたりして困惑することがある。それは電子書籍の話は典型的であるし、あるいはウェブ上のページについても、明確には言えないけど、「ああ、これは紙の比喩の臭いだな」という感覚的なものが刺激されて、少し違和感を覚えることがある。もちろん、「紙の比喩」だけで悪いことではない。何故なら、紙が切り開いてきた体験の歴史もあるだし、紙を使うことによってわかりやすくなる側面も、多分にしてある。

 とはいえ、「紙の比喩」といっても何のことがさっぱりわからないので、具体的な例で考えてみる。個人的には、紙の比喩がもっとも出てくる場所というのは、電子書籍に関する話題のときだと思う。たぶん、電子書籍なんかで一番評判が悪いエフェクトの一つに、「ページめくり」のエフェクトがあると思う。このエフェクトにも、適切な用法というのはあるんだろうけど、ただ「電子書籍なんだから、書籍っぽいものを作ればいいよね」という発想の場合だと、これは邪魔でしかない。こういうのを、僕は「紙の比喩」だと思っている。

 自分で実践するのは難しいと十分承知しつつ、やはり電子書籍の体験というのは、たぶん「書籍的」な体験ではない。なぜなら、書籍的な体験というのは、それこそ、暴力的な言い方をすれば「紙の束」であるほうの書籍で充分だ。少なくとも、日本の文庫本というのは「書籍的な体験」としては、とても快適すぎると、自分は思っている。だからこそ、日本で電子書籍が上手くいかないんじゃないか、と感覚的には思う。例えば、紙の質がよいとか、製本がきちんとしているとか、そういう話だ。

 とするならば、電子書籍というのは、「電子的な体験」のほうが問題になってくるはずなのだ。そして、勘違いしてはいけないのは、「電子的な書籍」というのは、恐らく<視覚的なエフェクト>のことではない。例えば、一番「電子的な体験」として優秀なのは、電子辞書だと思う。たまに家電量販店に行くと、電子辞書が山のように並んでいる。あれはあれで(受験生産業にのっかっているだけ、という見方はできるけれども)、やっぱり電子書籍というフィールドでは成功しているものの一つだと思う。

 電子辞書が成功している理由のひとつとしては、やはり「検索性」という一点だと思う。辞書というのは「検索」するためのものであるからだ。最初から一枚ずつ読むのは、好事家じゃないかぎり、あんまり無いだろう。井上ひさしという作家は読んだといっていたけれども。とにかく、「検索」という需要に特化し、もはや「紙」の辞書とはまったく違うものなんだけど、あれはやっぱり「電子辞書」なのだ。

 最近で、「電子辞書」の体験として「いいなぁ」と思ったのは、Kindle Whitepaperで、線を引いたところを、一覧してWeb上から閲覧できるようになっているということだった。自分が線を引いて読まないと、本を読んだ気になれない人間だからそう思うだけかもしれないけれど、こういうのは、電子的でとてもいいなあと思う。そして、別にFacebookで共有できるとか、あるいは読書したページが記録されるというのにはあんまり魅力を感じないのだけれど、これも人それぞれだとは思う。とに かく、電子書籍が「電子的な体験」を切り開いてくれることに、自分はちょっとだけ期待している。

追記:そうそう、右クリック禁止とかいう奴、あれもたぶん「紙の比喩」だと思うところはある。