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あまりにも現実的な戦争

 何かの惨事が勃発した時、まず最初にそれがどれだけ「非現実的なもの」であるか語られることがある。9.11の時もまさに「これは果たして現実であるのだろうか」という問いから出発していたと思う。

 だが、一方で「まさにこれが現実なんだ」と思わされる惨事も多くある。例えば、3.11の原発事故のさいに見たものは「やはり、原子力発電所は事故が起きるのか」といったような感触であるように思われる。何はともあれ、3.11以降はリスクを考えずに原子力発電所を語るのは、片手落ちというか、思慮に欠けている印象はある。

 戦争のことは様々語られているが、一人の貧しき下民の感触と言えば、今回の戦争に関しては前記した二つの戦争が、あまりにも非現実的であったのが強調されているのに対して、この戦争に関しては「これが現実だ」という印象を受ける。これから書かれることも、政治情勢などを抜きにして、率直に「いま思ったこと」をメモしておきたい。事実の層における分析は専門家に任せるべきで、私のような人間が戦争において考えるべきは、なぜこれほどまでにショックなのか、ということにあると思う。

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 「現実」ということを語るときに、二つの形態を考えることできる。それは「潜在態」と「顕在態」である。例えば、痛風という病気を考えたさい、ビールを飲んでプリン体が溜まっている状態のことを痛風が潜在しているとも言える。それで実際に足やら関節が痛くなったときにやっと痛風が発病した、と捉えることができるようになる。

 問題は、このようにリスクが潜在化している状態というのは、常に「そうではないかもしれない」という状態を含んでいる。例えば、私は喫煙者であり、パイプたばこを吹かすことを楽しんでいる。私はタバコがガンの発病率をあげることを十分に理解はしている。だが一方で少なくないパイプ喫煙者が「実際のタバコの害は、紙巻きタバコの紙が燃える時に発生しているし、そもそも、車の排気ガスで大気が汚れているのに、タバコだけ文句言われるのは全く持って理解しがたい」と愚痴を述べる。

 これらが非喫煙者にとって都合のいい言い分であることは間違いないのだが、ポイントとしてはこのような蓄積が、常に生活態度的には除外して生活する類のものである、ということだろう。

 この話は、タバコの話よりも、私の病的な部分を語ったほうが早いと思うので、その話をする。

 私がトイレに入って、便座に座っていると頭の中に過るのが「ここで核ミサイルが落ちてきたら、このまま死ぬんだろうな」ということを思うことがある。だが、これらを常時思っていると生活が出来ないように、何処かでそういった「考えても仕方ない可能性を除去して生きていく」ということになる。だからこそ、ハイデガーはその生活態度の上で、最も忘却されている「死の可能性」を考え直すということを提案したともいえる。

 少なくとも、このように忘却されている現実の状況の裏側にある可能性が亡霊の如く回帰してくるとき(言い換えるならば、潜在的な状況から顕在化した場合)それが「まさに現実」というリアリティを持つという側面は間違いなくある。だからこそ「核兵器を脅しに使う大国が現れた」と述べた時に、その暴力性という原始的で根源的な印象と同時に「まさに現実だ」ということを感じざるを得ないだろうと思う。そのような可能性の爆発こそ、今回の戦争に相応しいものに感じる。

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 今回の戦争において、現実的だと感じるのは、これが形式的には「アンチ・ナチズム」同士の戦いを取っているということだ。当然、内実を取ってみれば、実際に「ナチズムかどうか」の検証は出来るが、趣旨はそっちではない。

 大澤真幸が記述しているように(『夢より深い覚醒へ』岩波新書, 2012)、これは9.11をきっかけに行われたイラク侵攻に近い構造を取っている。というのは、このときアメリカがイラクへ侵攻する理由というのが、まさに「先制防衛」という概念だったからだ。この概念は「未だ攻撃される前に、潜在的な敵は攻撃してきた」という意味を持つ

 しかしここで重要なのは、「潜在的な敵が攻撃してきた」とする言葉である。大澤真幸が正しく指摘しているように、これは偶有性の否定である(前の文章でも書いた通り、潜在態というのは常に「かもしれない」という曖昧な領域を含まざるを得ない)。そうすると何が起きるか。

しかし、こうしたアイデア ( = 先制防衛 ) は、本末転倒とも見なすべき逆説をもたらした。破局Xはすでに始まっている。しかし、それはいつまでも終わらなくなってしまうのである。どんなひどいことがあっても、どこまでいっても、それらはまだほんもののXではない、Xが完結したときにはもっとひどいはずだ、という強迫的な観念が消えなくなるのである。こうして、「テロへの戦争」は終わりのない戦争になってしまう。破局Xに関して、それがすでに開始されたという前提をとったがために、今度は終わらなくなってしまったのだ。(p.87)

 このような指摘が重要なのは、今宵指摘されている「被害者意識」なるものの極限状態というのは、まさに「私たちは既に潜在的に攻撃されていた」だからである。当然、このような被害者意識というものが、いわば最大の防御であるという、現代的な道徳という側面も指摘されるが、むしろ我々が目にしているのは、アメリカがイラク侵攻と同じロジックとして利用した「先制防衛」に近いものだということが可能である。すなわち、加害者ということを避けつつ加害を成す方法だということができる。

 問題は、大澤真幸が指摘しているように、これが「終わらない戦争」の形態を取ることになる、ということだろう。つまり、潜在態を無理に顕在化させようとしたために、あらゆる顕在態を駆逐する浄化戦になってしまうということだ。だとするならば、これは最もおぞましいものであろうと思う。

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 二十世紀の共通悪がヒットラーとして定着して以降、様々な人間がヒットラーとして名指されてきた。しかし、自らの内なるヒットラーを反省する機会は殆どなかっただろう。むしろ、そのような可能性に再び直面するのを避けるために、ナチスに関わった知識人の焚書が、ドイツで行われたという冷めた気持ちにしかならないだろう。

 同じく、今回のプーチンにしても、自らの内なるプーチンには気がつくことがない。だが、少なくとも、私には、私を含めた時代が生んだという確かな現実の肌触りを感じるが故に奇妙な苦しみを(それが身の丈に合わず、また強迫的であるとはいえ)覚えざるを得ないのである。