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遠回りする、そして車輪の再発明をする

 ソフトウェアの世界には、「車輪の再発明」という言葉があるらしい。具体的には、過去に実装されたものを、自分たちでまた作り直してしまうことだ。そして、この「車輪を再発明すること」は、少しだけ嫌われている。それは解らなくもない。既に、そういう実装があるとするなら、そっちを利用したほうがより合理的であるのは確かだからだ。自分自身も、あまり自分のことを信頼していないし、スキル的にもあまりよろしくないと思っているので、自分がそういうのを実装するより、まず最初に技術的にも歴史的にも、それなりに積み重ねられているライブラリを探したりする。

 とはいえ、この「車輪の再発明を避ける」という行為は、業務だったらわからなくもないけれども、少なくとも自分の興味内で「車輪の再発明」をすることは悪いことではないように思う。というのは、趣味の世界というのは、なんだかんだ言って、過程を楽しむ世界でもあるからだと、僕は思っている。例えば、僕がこういう文章を書いていることだって、過去にたくさんあるだろう。なものだから、さすがに自分を単独無類の存在だとは思っていないし、大抵のアイデアは思いついたら過去50年間に思いつかれている、くらいのことは考えている。だけど、こういうのをわざわざ書くのは、なんだかんだいって「何かを書きたい、そして書いている」という過程が、それなりに好きなのだろうとは思う。

 昔から、「1日は24時間しかないので1秒1秒を大切にしましょう」という考え方があまり好きではない。というのは、自分が昔から本番に極端に弱いというのもあるんだけど(だいたい、本番になると変なミスをしてしまって全てを台無しにする)、もう一つとして、「1秒を大切にすることというのは、もしかしたら1日を大切にしないことかもしれない」とか思ってしまうからだ。

 僕の失敗談を話しておくと、僕が大学受験生だったころ、参考書ばかり集めていたことがあった。それは単純な話で、自分がやっていることよりももっとよりよい効率的な方法が何処かにあるんじゃないか、って常に思っていたからだ。だから、やたらと参考書に関しては詳しかったんだけど、成績自体は余り伸びなかった。そりゃそうで、確かに正しいアプローチを知ることも大切ではあるんだけど、方法は方法であって、中身を手助けしてくれるものではない。結局のところ、それらはやってみなければどうしようもないことだ。

 そういう意味では、「遠回りをする」ということも、一つの大切なことではあると思う。前にも書いたとおり、余りにも的外れであっても仕方はないんだけど、だからといって効率ばっかり追い求めるのも、逆効果であると思う。それなりに失敗してみることで、始めて解ることも多々あるわけだし、また人はその結果だけで生きているわけではないことを考えるならば、そういう過程というのは(状況によるけれども)大切だと思う。

 自分とかは、嫌な人間であるので、たまに「ああ、それ見たことあるよ、○○の奴でしょ」と、過去のことを引っ張り出してきては嫌らしいことを言ってしまうんだけど、とはいえ、基本的には「人が何かをすること」というのに対しては、できるだけ否定したくはないという思いはある。とはいえ、これもなかなか難しくて、まあ自分が嫌らしい人間だからだと、「君が何か言うから、何かしようとする気が失せる」と伝えられて反省することは、多々ある。

 前に読んだ本で、「小説家というのは、過去の作品について知らないから、小説を書こうという気になれるんだ」という話をしていて、このものの言い方も嫌らしくてなかなか好きなんだけど(類は友を呼ぶという奴かもしれない)、創造性というのは、ある部分ではこういった「無知」に根ざしている部分もあるように思われる。僕は、自分と同じ文章を何処かで書かれていることを知らないからこそ、逆にこうやって伸び伸びと書けてしまうわけだ。だとするならば、遠回りというのは、ある意味、楽しむことに一番近道なのかもしれない(と思うと気が楽だ)。

 人生は短すぎるというけれども、ただ一方でそういう風に考えるのも気が短いだけかもなーとも思う。

「悪い脳」をハックする

 たぶん、多くの人々は、自分のことを「良い人間」だと思うところがあると思う。どんな悪い人間にしろ、「自分は賢くやっている人間」であるとか、そういう風に自分を規定しているところはあると思う。もちろん、自己否定に走りがちな人間も多くいるとは思うし、自分も立ち止まると、そういう意識が入ってくる人間だから、分からないことはない。そういう人間でも、周りに良く見られたい、とかはあると思う。

 やっぱり、自分は悪い奴だというか、性格が悪い人間だと自覚させられる瞬間は何度かある。例えば、人を小馬鹿にしたいとか、見下したいとか、そういうの。そういう心情的な部分は無いほうがいいんだけど、でもそういうのは存在してしまうのは仕方ない。そして、その心情というのはなかなかやっかいで、もしかしたら直らないかもしれないし、無理に直そうとすると、変な風に曲がってしまう、ということもたぶんある。

 そのあたりに関しては、フロイトという精神分析の人が、「昇華」という概念を使ったりしている。これは防衛機構全般のことを指したりすることもあるんだけど、もう一つは「成功した防衛機構」と呼ばれたりもするらしい。要するに、自分の欲望が社会的な価値にトランスレートできたときのことを指す。例えば、自分の破壊衝動を文章とか絵にぶつけたりとする、といった場合だ。

 この考え方自体は、好きだったりする。

 例えば、「誰かに認めてもらいたい」から絵を描くとか、あるいは「モテたいから」バンドをやる、といったようなそういう動機付けというのはやっぱりある。そういうのがあって、そこから作品が生まれることは悪いことではない。逆に言うと、そういうのが強烈なモチベーションになったりする。例えば、二次創作やRemix作品に対する「リスペクト」という言葉は、ちょっと立ち止まることがあって、たぶん憎悪から生まれた作品であったとしても、それがいいものであるならば、むしろそれでもいいと思うし、僕はどちらかというと、そういうものに振れてきた人間だから、どちらかというとそういうのに少し親近感を覚えてしまうのだろう(たぶん、僕たちが責めるべきなのは「作品に対するリスペクトを欠いている」のではなく、「作品の完成度が余りにも負けている」という状態だと思う)。

 とあるところで、僕は「上から目線駆動学習」というのを説明したことがあって、それはどういうことかというと、要するに「人を小馬鹿にしたい、見下したい」というのがきっかけで勉強を始めることはあるということを話した。それは僕の悪い部分ではある。もちろん、この方法には欠点があって、容易にコストパフォーマンスの高い「バカにしたい」という結論を導きだしてしまうことだ。要するに「天狗になってしまう」という場合だ。しかし、それも悪いことではない。「天狗になる」ということは、場合によっては、何かしらの行動に移すきっかけとなるからだ。「自分になら出来る」という全能感がないと、踏み出せない一歩というのもある。

 たぶん、そういう「否定したい自分」というのは、もしかしたら運用次第によっては、「肯定したい自分」という可能性が秘められたりする。どんな物事であれ、それは両義的な価値を秘めていることが多々ある。ガソリンが、暫くの間は実用に耐えられなかったように、そういうゴミみたいな道徳みたいなものが、ちょっとズレているところに、もしかしたら、価値を転換できるような何かが秘められている可能性だってある。

 もう一つ。精神分析が示唆するところによれば、「自分が自分の意識として考えている欲望というのは、実は錯覚かもしれない」という話がある。つまり、自分の欲望に忠実になるというわけではなく、その欲望をこなそうとする遠回りに、もしかしたら自分の内なる欲望が隠されているのかもしれない、と考えると、ちょっとだけ面白い気もしてくる。

「無能」であることから始める

 例えば、本屋にいくにしろ、ブログとかを読むにしろ、「出来る人の○○の習慣」みたいなのが上がってきたりする。それを読んだりするけども、「ふーん」という感じになって、すぐに閉じてしまう。

 その理由は、そういう記事に特有の、何だかよくわからない「いけすかなさ」を感じるという、自分の性根の悪さのせいもあるのだけれども、さらに言ってしまうと、たぶん、それはそういう記事における自分のアプローチとの相性の悪さというのもあるんだろうな、ということを感じる。

 まず一つに、自分が「無能」であるという自己認識から始める。「無能」であるということは、例えば何かを継続してやろうとしても、習慣化することは無いし、またすぐになんだかんだ理由をつけて放り投げしまう、という「自分への信頼のなさ」を前提としている。もう少し言うと「意識の高さで克服できるような何か」ということを端から期待しない。少なくとも、意識の高さでなんとかなるとするならば、既に自分は何かできているはずだからだし、正直なところ、早起きしようとしても二度寝してしまって、結局間に合うぎりぎりに家を出るような体たらくにならないと思っている。

 基本的に、自分が何かをやりたいといった場合であったり、何かを改善したいといったときに、まず手をつけるようにしているのは、基本的には「そのようにしなければならない環境構築」と、「それを手助けるための道具」、この二つがないかどうかを調べることだ。言ってしまえば、要するに「自分がそうしなければならない状態」というのをある程度作ることが重要だと思う。そして、それは自覚的にやるということ。自分が仕事に集中しようとしてできかったり、あるいはブログを集中して書こうと思ってもなかなか出来なかったりするのは、それができてしまう環境があるからだ。だからこそ、そういう「できてしまう環境」というのを封じ込める必要がある。そして、その環境を構築するための道具を作る。

 あともうひとつとして、これらの「そのようにしなければならない環境」と、「それを手助けするための道具」について、試行錯誤していくのが重要だと思っている。元々、自分の性分としていろいろ試すのが好きだから、半分くらいは趣味みたいなものである。これが重要なのは、その環境が自分にフィットしないと駄目だからだ。闇雲に縛り付けるだけでも、ただ疲れてしまう。疲れてしまうということは、持続可能性が無い。持続可能性というのは、おそらくは「無理をしない」ということと、「喜んで!」というところがある。

 だから、環境を作るにしろ、それは自分のアプローチに納得する形に作る必要がある。たぶん、それで辛かったり、疲れてしまう場合は、そもそもの前提が悪い可能性もある。とにかく、自分が「出来そうだな」というのがなかったり、あるいは「やれてよかったな」というのがないと、自分は辛い感じがする。苦痛があることは、人生において仕方ないことであるが、苦痛は軽減したいところではある。

 自分はそういう感じで考えていたりする。これが実践できているかどうかはともかくとして、「無能」なりには前進していると思う。

僕達はあまりにも繋がりすぎてしまって

 昨年からもそうだったかもしれないけど、今年もやはりというか、なんというか「ソーシャル」という言葉がやたら出てくるなあという感じだった。ソーシャルに関しては、愛憎的な、微妙な気持ちを覚えたりすることが多々あって、その辺をメモしておく。

 ソーシャル周辺の美談としては、例えば、ふと思いついたアイデアをアウトプットした結果として、それが人々から伝達され商品化されたり、あるいは何か心を打つエピソードが一瞬で広がったり、あるいは緊急時に情報が広がっていくといったような、そのような側面があるということは否めない一方で、例えば、ふと人々が不愉快になる発言をした場合に、一気に叩かれたりしてしまう。そういうメリット・デメリットみたいなのが存在しているのは確かではあるし、例えば一時期流行った「ソーシャル疲れ」というのも、結局のところ、人の眼を気にしすぎちゃって何も書けなくなる、みたいな話であった。

 「ソーシャル」というのは、内輪の空間を巨大な「公共物」の中に投げ込んでしまう。そして、現実問題として、人々が関わりたいのは、「目の前にいる人々」であって、「遠くにいる誰か」ではない。そういうのを考える人もたぶんいるのだとは思うけれども。恐らく、ソーシャルの美談であったり、炎上であったりというものは、「目の前にいる誰か」を飛び越えて「遠くにいる誰か」へと送り込んでしまう。そして、私たちのコミュニケーションというのは、たいてい「目の前にいる人々」に最適化されてしまっている。なので、「遠くにいる誰か」が不愉快であるかよりも、「目の前にいる人」が喜ぶことを、まず考えてしまう。

 そういう意味では、元Facebookの作った「Path」なんかは、まさに「目の前にいる人」というのに特化したものだろうし、あるいは「LINE」も、もしかしたらそういうことなのかもしれない。僕は一時期から「繋がる」ということについて、それほど過剰に意味づけしていいのだろうか、という疑問がずっとあった。それは、元々それほど僕が人付き合いが得意でないから、という理由もある。とにかく、ある部分では、繋がりすぎているというのが、やはりある。

 アンチソーシャル、というほどではないけれども、結論が「やっぱりソーシャル」になってしまうと、それはとてもつらいなあと思うことはあるし、そこから離れるためのコンセプトというものはいったい何になるんだろうというのは気になって仕方がない。たぶん、ソーシャルと言うことによって、ソーシャルでないメリットを、何らかの形で失っている。

 もちろん、それはインターネットの回線を切れば、そこには静寂が広がっているわけだから、それでいいのは事実だ。だけれども、単に回線を切るだけでは寂しすぎる、という感情もある。もう少し建前を取り繕うなら、やはり「ある程度人に見せることを前提とする」のでなければ、それなりに意識的に文章を書いたりもしないだろう、というのもある。とにかく、この矛盾した感情というのに対して、どのように形を与えるのか、というのは、自分の課題でもある。