Archive

僕達はあまりにも繋がりすぎてしまって

 昨年からもそうだったかもしれないけど、今年もやはりというか、なんというか「ソーシャル」という言葉がやたら出てくるなあという感じだった。ソーシャルに関しては、愛憎的な、微妙な気持ちを覚えたりすることが多々あって、その辺をメモしておく。

 ソーシャル周辺の美談としては、例えば、ふと思いついたアイデアをアウトプットした結果として、それが人々から伝達され商品化されたり、あるいは何か心を打つエピソードが一瞬で広がったり、あるいは緊急時に情報が広がっていくといったような、そのような側面があるということは否めない一方で、例えば、ふと人々が不愉快になる発言をした場合に、一気に叩かれたりしてしまう。そういうメリット・デメリットみたいなのが存在しているのは確かではあるし、例えば一時期流行った「ソーシャル疲れ」というのも、結局のところ、人の眼を気にしすぎちゃって何も書けなくなる、みたいな話であった。

 「ソーシャル」というのは、内輪の空間を巨大な「公共物」の中に投げ込んでしまう。そして、現実問題として、人々が関わりたいのは、「目の前にいる人々」であって、「遠くにいる誰か」ではない。そういうのを考える人もたぶんいるのだとは思うけれども。恐らく、ソーシャルの美談であったり、炎上であったりというものは、「目の前にいる誰か」を飛び越えて「遠くにいる誰か」へと送り込んでしまう。そして、私たちのコミュニケーションというのは、たいてい「目の前にいる人々」に最適化されてしまっている。なので、「遠くにいる誰か」が不愉快であるかよりも、「目の前にいる人」が喜ぶことを、まず考えてしまう。

 そういう意味では、元Facebookの作った「Path」なんかは、まさに「目の前にいる人」というのに特化したものだろうし、あるいは「LINE」も、もしかしたらそういうことなのかもしれない。僕は一時期から「繋がる」ということについて、それほど過剰に意味づけしていいのだろうか、という疑問がずっとあった。それは、元々それほど僕が人付き合いが得意でないから、という理由もある。とにかく、ある部分では、繋がりすぎているというのが、やはりある。

 アンチソーシャル、というほどではないけれども、結論が「やっぱりソーシャル」になってしまうと、それはとてもつらいなあと思うことはあるし、そこから離れるためのコンセプトというものはいったい何になるんだろうというのは気になって仕方がない。たぶん、ソーシャルと言うことによって、ソーシャルでないメリットを、何らかの形で失っている。

 もちろん、それはインターネットの回線を切れば、そこには静寂が広がっているわけだから、それでいいのは事実だ。だけれども、単に回線を切るだけでは寂しすぎる、という感情もある。もう少し建前を取り繕うなら、やはり「ある程度人に見せることを前提とする」のでなければ、それなりに意識的に文章を書いたりもしないだろう、というのもある。とにかく、この矛盾した感情というのに対して、どのように形を与えるのか、というのは、自分の課題でもある。