Archive

「パクる」ことの才能

 よく言われていることの一つに、「学ぶということは真似るという語源と一緒である」という話であって、何かを作ったりするときには、模倣するという方法が効率的であるという話があって、そのことに関しては否定はしないんだが、しかし同時に「真似る」ということが簡単である、みたいな話になると、どうしても「ちょっとそれは簡単に言い過ぎじゃないのかなあ」と思うことがある。

 何かのアイデアを思いついて、そのアイデアを煮詰めていくという時間というものは存在していて、いろんな選択肢の中から、これが一番効率的である、みたいな検証作業というのがあるのはわかっていて、たぶん何かを「真似する」ということは、そういう検証作業をすっとばしているという意味で、卑怯に感じるんだろうとは思うし、自分もそう思う。

 例えば、エジソンが白熱電球を作るときに、いろんなプロトタイプを作っていて、やっとフィラメントに竹を採用する部分に行き着いた、という話があるが、「じゃあ俺たちも竹を使おう」と言ったら、そりゃなんだか「ずるいなあ」という感覚はあるだろうし、俺にもある(場合によって、真似された本人は怒るだろう)。

 それを認めた一方で、じゃあ実際にエジソンの白熱電球を真似しよう、としたときに、やはり真似するには、「どこを真似すればいいのか」という感性が必要になってくる。ソフトウェアにも言えることだけど、あるユーザーインターフェイスを実装して、確かに「ガワ」は一緒なんだけど、どことなく使いにくかったり、あるいは全く邪魔なものになったりする。

 秋葉原のジャンク通りにいくと、そういう「パクリ」商品が多々あって面白く感じる。たまに、そういうのを興味本位で買ったりするんだけど、やっぱり恐ろしく使いにくかったりする。それは、やはり「何処を真似するか」という感覚なんだろうと思う(そして、それは往々にして「見た目だけを真似すればいいや」という感じに陥りやすかったりする)。

 たぶん、「真似をする」という部分においても、当たり前だけど「真似することが出来るまでのスキル」というのが存在しているはずなのだ。その「真似をすることのスキル」というのは、単純にそれをそのまま複製できるというスキルだけではないはずで、もっというと「それを真似するための勘どころ」みたいなものも同様にあるはずだ。その「勘どころ」というのは、ある程度、それらを飛び込んで、自分なりの試行錯誤をやっていかないとよくわからない部分だったりする。

 俺が中学生のころ、最後まで居残って古典の勉強をしていた子がいて、そこまで勉強していたんだから、きっと点数もいいんだろうと思っていたけど、全く出来ないで、どちらかといえば下位の成績ばっかり取っていた子がいる。とはいえ、世の中は勉強だけではないから、それで「点数が良いこと」以外のことを、何か学び取った可能性を信じつつ、やはり単純に「真似をすることは楽なのだ」という話にも、なんだか口ごもってしまうのだった。

「考えさせない」ための娯楽という価値

 例えば、何らかのエンターテイメントに対して、「考えさせられる」という褒め言葉が使われることがある。それに対して、「何も頭を使わないもの」に関しては、逆に、やはり少し劣ったエンターテイメントだと見做されることがある。もちろん、娯楽に対する評価軸が、これだけであるとは思わない。だけれども、「考えないこと」の需要について、「考えさせられる」という需要よりも、真面目に考えられることはあんまりないように思われる。

 たぶん、この問題があまり考えられないのは、「考えさせない」という娯楽が、一部の「考えない層」向けという側面があるという風に考えられるからで、それはそれで間違いはないのかもしれないけど、それはそれで半分くらいしか説明していないんじゃないか。

 この話を考える前に、少し遠回りをする。キヨスクに官能小説が売ってある理由とはなにかみたいな話を知人から聞いたことがある。それは当然「それなりに利益が出る」からなんだけど、でもじゃあ誰が買っているのかという問題になる。キヨスクの官能小説を愛読している一人に、医師がいたという。どういうタイミングで読むかといえば、例えば新幹線で別の病院へいき、重要な手術を行い、その帰り道に読んだりするという。なぜ、その医師が官能小説を読むかといえば、「現実とは関係ないことであるし、またそれほど頭を使わないから」だという話があった(らしいが、もしかしたら記憶違いかもしれない)。

 この話でやはり思うのは、プレッシャーやストレスから開放されるための娯楽というのはある。実際に、「仕事中に散々頭を使っていたのに、なぜプライベートまで頭を使わなければならないのか」という人はそれなりにいるんじゃないんだろうか。だからこそ、単純なゲームのほうが望ましいということはありうる。そのゲームをやっているときだけは、何も考えなくていいと思うのは、それはそれで価値だ。

 例えば、筒井康隆の短篇小説に『にぎやかな未来』というのがあって、この短篇が自分としては気に入っているので、よく引用する。これは広告を終始聞かなくてはいけなくなった世界において、もっとも価値のあるCDというのは「何も入っていない」CDだった、という話である(つまり、静寂!)。そういう風に考えるなら、考えることが多すぎる現代では、「考えないこと」というのは、同様に価値をもってしまう瞬間もある。

「じゃあ、WebプログラマーはCSSが書けなくていいの?」

 急激にグラフィックデザインの勉強がしたくなって、『ノンデザイナーズデザインブック』を買ってきた。かなり基礎的なことが書いてあり、素人にとっては、とても参考になることが多く、買って良かったと思う。とはいえ、「参考になった」というのは誰でも言えるので、このブログのCSSを少しずついじったりすることによって、実践も少しずつしていきたいと思う。

 そういえば、一部において「(Web)デザイナーはJavaScriptが書けるべきなのか」という話があって、その話の対になるものとして「プログラマーはデザインが出来なくてもいいのですか?」というのがある。一時期は「(Web)デザイナーはPHPがわかるべきか」という話だったらしい。自分はPythonistaだから、その界隈を引き合いに出すんだけど、Ruby関係のライブラリに対して、Pythonで書かれたものはページがダサいと揶揄されたことがあった。あと、アレ。

 「あ、それTwitter Bootstrapかー、あー、またBootStrapだよー、まーわかるんだけどー(地獄のミサワ)」。

 このあたりについては、とある勉強会で「Twitter Bootstrapはデザイナーではしまむら扱いという話もあるようで」みたいな発言を聞いたりしていた。

 確か、『More Joen on Software』で、Napstarに対する愚痴みたいなもの(「ユーザービリティがすべてではない」という章だね)が書いてあった。強引にまとめると「無残なユーザビリティーであったとしても、それは使われちゃうのだ」みたいな話だ。Napstarは、もうもはや聞かなくなったけど、P2Pで音楽を共有するためのソフトウェアだ。でも、この話は逆のことも言える。例えば、Webサービスを使うときに、何故かHTMLソースを読んじゃうような変人だったりすると、流行っているサービスであるのにも関わらず、ゴミみたいな実装が透けて見えたりして、唇を噛み締めることはあると思う。

 たぶん、Webデザイナーが「JavaScript」について知った方がいいという話は、端的にいってしまうならば、「その挙動はそもそもできるのかどうかくらいは分かった方が、色々とはかどると思う」っていうくらいの話だと思う。で、それ自体は逆のことが言えて、つまり「プログラマーが言っているデザインというのは、実はかなりむちゃくちゃなことを言っている」という話もあるわけで、以前の日記にも書いたけど、結果としてコミュニケーションの話なんだろうなという気がする。

 単純に、多くの物事は知っておいたほうがいいし、理解しておいたほうがいい。それは当たり前であり、それはどんな領域でも例外ではないと思うが、残念なことに我々は有限であり、有限なリソースと有限な関心領域しか持ち合わせることは出来ない。どれだけ雑食な関心を持つ人間であっても、やはりどうしても「これは興味わかねーな」という領域はあるわけで、それは仕方ないし、興味あっても、時間の束縛で知れないことは多くある。それは仕方ないことだし、それはそういうものだと思って割り切るしかないだろうなーとは思う。

 あと、もう一つ。たぶんWebデザイナーJavaScriptを勉強するよりも、Webプログラマーがデザインを勉強するよりも、誰にも見つからずに物陰に隠れるスキルを身につけて、月が隠れている晩に、無茶ぶりをする奴を鈍器で殴る方法を学ぶことのほうが世のために役に立つ気もする。でも、そのスキルが必要になる状態になったら逃げることを考える方が先決なのかもしれない。

アプリケーションを「紙の比喩」から解き放つ

 説明するのは難しいが、何かしらの電子的な体験の話をすると、亡霊のように、何処からともなく「紙の比喩」が出てきたりして困惑することがある。それは電子書籍の話は典型的であるし、あるいはウェブ上のページについても、明確には言えないけど、「ああ、これは紙の比喩の臭いだな」という感覚的なものが刺激されて、少し違和感を覚えることがある。もちろん、「紙の比喩」だけで悪いことではない。何故なら、紙が切り開いてきた体験の歴史もあるだし、紙を使うことによってわかりやすくなる側面も、多分にしてある。

 とはいえ、「紙の比喩」といっても何のことがさっぱりわからないので、具体的な例で考えてみる。個人的には、紙の比喩がもっとも出てくる場所というのは、電子書籍に関する話題のときだと思う。たぶん、電子書籍なんかで一番評判が悪いエフェクトの一つに、「ページめくり」のエフェクトがあると思う。このエフェクトにも、適切な用法というのはあるんだろうけど、ただ「電子書籍なんだから、書籍っぽいものを作ればいいよね」という発想の場合だと、これは邪魔でしかない。こういうのを、僕は「紙の比喩」だと思っている。

 自分で実践するのは難しいと十分承知しつつ、やはり電子書籍の体験というのは、たぶん「書籍的」な体験ではない。なぜなら、書籍的な体験というのは、それこそ、暴力的な言い方をすれば「紙の束」であるほうの書籍で充分だ。少なくとも、日本の文庫本というのは「書籍的な体験」としては、とても快適すぎると、自分は思っている。だからこそ、日本で電子書籍が上手くいかないんじゃないか、と感覚的には思う。例えば、紙の質がよいとか、製本がきちんとしているとか、そういう話だ。

 とするならば、電子書籍というのは、「電子的な体験」のほうが問題になってくるはずなのだ。そして、勘違いしてはいけないのは、「電子的な書籍」というのは、恐らく<視覚的なエフェクト>のことではない。例えば、一番「電子的な体験」として優秀なのは、電子辞書だと思う。たまに家電量販店に行くと、電子辞書が山のように並んでいる。あれはあれで(受験生産業にのっかっているだけ、という見方はできるけれども)、やっぱり電子書籍というフィールドでは成功しているものの一つだと思う。

 電子辞書が成功している理由のひとつとしては、やはり「検索性」という一点だと思う。辞書というのは「検索」するためのものであるからだ。最初から一枚ずつ読むのは、好事家じゃないかぎり、あんまり無いだろう。井上ひさしという作家は読んだといっていたけれども。とにかく、「検索」という需要に特化し、もはや「紙」の辞書とはまったく違うものなんだけど、あれはやっぱり「電子辞書」なのだ。

 最近で、「電子辞書」の体験として「いいなぁ」と思ったのは、Kindle Whitepaperで、線を引いたところを、一覧してWeb上から閲覧できるようになっているということだった。自分が線を引いて読まないと、本を読んだ気になれない人間だからそう思うだけかもしれないけれど、こういうのは、電子的でとてもいいなあと思う。そして、別にFacebookで共有できるとか、あるいは読書したページが記録されるというのにはあんまり魅力を感じないのだけれど、これも人それぞれだとは思う。とに かく、電子書籍が「電子的な体験」を切り開いてくれることに、自分はちょっとだけ期待している。

追記:そうそう、右クリック禁止とかいう奴、あれもたぶん「紙の比喩」だと思うところはある。