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マイナスとマイナスをかけたらプラスであることについて

 私は一時期、整数論を少しやっていたことがある。やっていた、とはいえ、実際のところはテキストの最初のほうを流し読みしたくらいで、実際のところは「なるほど、わからない」ということで、その整数論の教科書みたいなものを直しては諦めたりしている。

 その中の古典的な内容の一つに「-1と-1は1になるのはなぜか、分配律より得られることを示せ」という問題が『初学者のための整数論』に載っている。これは、言ってしまえば整数に関する基本的な性質を前提としなければならない。使う規則は次のようになる。

  1. x + y = y + x, xy = yx (交換則)
  2. 0 + x = x, 1x = x
  3. x(y + z) = xy + xz (分配則)

 さて、このとき私たちはこれ以外の規則を勝手に使ってはならないという縛りをつけておこう。逆に言えば、この規則ならどのように使っても良い。例えば、私たちは「任意の数に0をかければ0になる」ということを知っている。しかし、私たちはその規則を導きだしてはいない。従って、上の法則からその規則を導きだす必要がある。

  1. 「任意の数」をaと置き「任意の数に0をかければ0になる」と仮定する。このとき、上記の規則を認めるならば「a0 + a = 0 + a = a」となる筈である。
  2. (2)の規則より、aをa1と記述する。「 a0 + a1 = a0 + a」に式を変形することが出来る。
  3. 次に、分配則により 「a (0 + 1) = a0 + a」とすることができる。
  4. 計算すれば、a1 = a0 + aとなる。
  5. 再び(2)の規則により、a = a0 + a 6. 従って、これにより「任意の数に0をかければ0になる」ということが証明できた。

 そこで、-1と-1をかけたら1になる、ということは、-1と-1の掛け算から1を引いたら0になると言い換えることができる。従って、「(-1)(-1) + -1 = 0」ということを証明すればよい。

  1. -1・1 + (-1)(-1) = 0 に変形する(規則2より)
  2. -1(1 + -1) = 0 に変形する(分配速より)
  3. -1 (0) = 0
  4. 0 = 0 (任意の数に0をかければ0になるので)

 ここから「-1と-1の掛け算から1を引いたら0になる」ことが証明できた。このとき「-1 + 1 = 0」なので、「(-1)(-1) = 1 」としなければ、上記の式は成立しない。従って、「-1と-1をかけたら1になる」ということが証明できた。

教訓

 私たちが物事を理解する時に「比喩的な推測」と「論証的な方法」の二つがある。「比喩的な推測」というのは、例えば直線を引き、マイナスをかけるということは、線の逆に同じ数があり、その数に変換する操作だと考える。二回行えば、逆の操作から逆の操作ということで、マイナスにマイナスをかければプラスになるという比喩が使えることになる。

 しかし、このような比喩的な説明は、同じような混乱を引き起こすことがある。例えば「負数」が見つかった時、負数を認めない人達の間では「借金に借金をかけると財産になるということは到底理解できない」と攻撃されたことがある。比喩の例えば、同時に比喩の反論をくらってしまう。そうすると、どちらが正しいかという議論が難しくなってしまう。

 もう一つの問題がある。

 いわばマジョリティとしては比喩のほうが理解しやすいと思っているが、ごく一部には論証するほうが理解しやすいという人々がいる。このような人々というのは、実はむしろ数学が得意な人々であったりするのだが、しばしば数学が不得手な人に合わせた形で説得させられてしまう。そうすると、本来数学が得意だった人達は「私は数学が苦手なのか」と思い込まされてしまう。

 そうやって、しばしば教育の場において、本来は数学が得意だが「数学が苦手だと思いこんでいる子ども」を生むという残酷な結果を招いてしまう。

防御は最大の攻撃

 私は二年前ほど、文章修行だと言わんばかりに、図書館に毎日出かけては、一生懸命ノートを取っていたことがある。久しぶりにそのノートの一つであるスローターダイクの『シニカル理性批判』を取り出して眺めているのだが、本の実際にその根拠というか論旨というものがどういうものだったのか、というのを思い出すのが難しくて、余り良いものではないなという感想を覚えてしまう。

 とはいえ、本書の書き抜きをさらっと読んでみると、そもそもそういう根拠のある論旨というものはなくて、元々構成的に通史として書かれてはいるが、資料を用いて自身の偏見を爆発されている本だとも言えなくはないのかもしれないと思ったりもする。

 例えば、次の引用はそういったものであろう。

われわれの頭の中を渦巻く情報洪水、そこに取り柄のひとつも見つけてやろうというのなら、その徹底した敬虔主義と自由「市場」の原理を讃えねばなるまい。見ようによっては、現代のマスメディアには、啓蒙と密接に繋がる機能すら備わっていると言えなくもない。一切を呑み尽くす際限のない経験主義……、存在全体に向けられた哲学の視線を習得することによってメディアも哲学に倣うのだ。ただ概念によってではなく、エピソードによって全体を眺める点が違うだけである。情報が送り込まれるわれわれの意識の中では、とてつもなく巨大な同時性の殿堂が出来上がる。西に食べる者あれば、東に死ぬ者あり。南に拷問される者あれば、北に別れる有名人のカップルあり。片や シカゴボーイズの経済理論あり。右にポップコンサートに数千人が酔いしれば、左に何年間も見つけられることもないまま居間に横たわっていた女の死体あり。一方でノーベル化学賞に物理賞、平和賞が授与されるかと思えば、他方では二人に一人しかドイツ連邦共和国の大統領の名前を知らない。片やシャム双生児の切り離しが成功したかと思えば、片や二千人を載せた列車が川に突っ込む。こちら俳優に娘が生まれれば、あちら政治的な実験に伴うコストの予想額が出てくる。五十万から二百万の犠牲で済むというのだ。二百万ドルではない。二百万人である。とまあ、これが人生です。すべての情報をご提供できます。前の物でも後ろの物でも、重要な件もくだらない事例も、流行もエピソードもすべて同列に並べられ、同列は同等に、同等は「どうでもよい」になってゆく。(p.308)

 『シニカル理性批判』がどんな本かといえば、教科書的に述べるとするならば、ギリシア時代の犬儒派(キニカルな人間)が、後々に如何にして体制順応的なシニカリストになっていくか、という事を論じている。キニカルな人間というのは、本書の言葉でいうと「一匹狼の変人、世界を挑発する頑固なモラリスト」であったが、現代のシニカルな人間というのは「自分の鬱の徴候を抑えて何とか仕事に関して有能であり続けることができる者たち」という違いがある。そして、シニカルさの目的が「仕事をすること」だとするならば、当然ながら弱点もそこになる(多くの反応は、ある意味ではこの手の商取引に対する危惧であり、彼らが「なんとか喰っていく」ということに対する攻撃に真面目になってしまうのも、そういうことである)。

 メモ書きを読みながら、色々と思うことはあれど、そのメモ書きに一環して現れるのが「自己反省」という問題である。例えば、第四章の「暴露のあと」というところには、このような書抜きが残されている。

知は力だから「別の知」の挑戦を受けた優位権力はどれも、知の中枢に留まろうとせざるをえない。しかしあらゆる権力が、どんな知に対しても中枢としてふさわしいわけではない。反省の知はその主体から切り離せないとなると優位の権力に残された唯一の方策は、自分に敵対する可能性のある勢力の主体を自己反省の方便から切り離すことである。ここに太古以来の「思想弾圧」の歴史の理由がある。これは人間に対する暴力ではなく、またありきたりな意味での事物に対する暴力でもない。それは知るべきではないことを知ってしまう恐れのある人間の自己経験と自己表現に対する暴力なのである。検閲の歴史とは要するにそういうことである。それは反省を抑圧する政治の歴史である。(p.90)

 私の周囲には、教育はそれほど受けてはいないが、確実に地頭の良い人間が集まる傾向にあって、そのような人達と茶を飲みながら雑談をするのだが、決まって彼らが言うのは「私がもう少し頭が悪ければ、もう少し幸せに生きられたのに」という愚痴である。

 私はその愚痴を聞きながら、全く持って不遜な言葉であるとは思うのだけれども(そんな疑問を持つ人間が本当に賢いのかと首を傾げることはできるわけだが)、しかし同時にこれは世間一般に対する良くある否定的な現実でもあるとも思う。それこそ『啓蒙とは何か』を書いたカントですら『道徳形而上学原論』で、次のように苦々しく書いている。

それにまた開発された理性が、生活と幸福との享受に専念すればするほど、人間としてますます真の満足から遠ざかるということも、我々が実際に見聞するところである。こういうことがあるので、理性の使用に長けた人達のなかには、心に或る程度のミゾロギーすなわち理性嫌悪の念を懐く者がたくさんある、――もしこの人達に自分の心境をありのままに告白するだけの正直さがありさえしたら、まさにこれが彼らの本音であるに違いない。つまり彼等は、自分が携わるところのものから得た利益をざっと見積もってみても、実のところ幸福を獲たというよりはむしろ辛労の軛を額にくくりつけたにすぎないことを知るのである。なおここで私が利益というのは、生活を贅沢にするためのさまざまな技術の発明から引き出された利便のことではなくて、諸学(学問もまたこの人達にとっては、知性の贅沢と見なされている)から得られた利益を指しているのである。そして結局は、自然的本能による指導だけに頼って、理性が自分の行状に甚大な影響を及ぼすことを許さないような低俗なたちの人々を軽蔑するどころか、むしろ羨むということにもなるのである。(p.27)

 本書も述べている通り「知ろうとする意欲は、元を辿れば権力欲から来る。発展や存在、性や快楽、さらに自己満悦を求め、死すべき運命を隠蔽する欲求から生じる(p.187) 」という意見を認めるとするならば、明らかに現世的な幸福を拒絶し、なおも自由であろうとするような知というのは、それこそ背理というものであろう。

 そこでよく知られている「攻撃は最大の防御」という世間的な紋切り用語があるが、それは知にも求められることであって、最近のベストセラーにおいて「知」は「武器」として語られているところからも明らかではある。しかし、この知を逆にしてしまえば「防御は最大の攻撃」ということであって、犬儒派の強みというのは、徹底した内省こそ最も攻撃的な側面を持ちうるということであろう。

 例えば、ディオゲネスがゼノンのパラドックスについての話は、そういう内省の一種の極地だと考えることもできる。ディオゲネスはゼノンが矢が止まっているということを論証したと聞いて、ディオゲネスはすぐさま立ち上がりくるくるとその場を周った。すると、周囲の弟子たちは素晴らしい反論だ!と拍手をした途端、ディオゲネスは弟子たちをピシャリと叩いて廻ったそうである。

 最後に犬儒派に関して好きなエピソードを引用して、今日の日記を終わりにしておこうと思う。それはテーバイのクラテスに弟子として、妻として付き添った、女性哲学者のヒッパルキアの話である。以下はリンク先からの引用である。

ヒッパルキアはクラテースと恋に落ち、想いがつのって、もしも彼との結婚を許してくれなければ自殺すると、両親に告げた。両親は、娘を思いとどまらせてくれるようクラテースに懇願、クラテースは彼女の前に立ち、衣服を脱いで、「これがそなたの花婿だ。財産はここにあるだけだ」と言った。案に相違して、ヒッパルキアは大いに満足し、クラテースと同じ衣服をまとって、犬儒者の生活を選び、夫とともにどこでも公的な場に現れた。

 犬儒派の逆説とは、それがいわば一般的に考えられているような帳簿的なつじつま合わせではなく「失うほどに最も価値のあるものを得る」というところにあるとも言える。そして、それは本書で書き付けているように「人生の決定的な事柄に対しては理論など持ちえないというのを叡智の最後の結論(p.169) 」ということを証し立てているようでもある。

動物を性的に見ることについて

 宗教に於いて、禁則事項というのがたびたび問題になる。昨今の問題で言うと、例えば同性愛を認めるかどうかという問題が、その一つであり、今日でもキリスト教原理主義者は同性愛に対して強い拒否反応を示すことがたびたび指摘されてはいる。

 しかし、動物性愛の禁止についてはあまり取り上げられることはない。それは単純な話ではあって、同性愛が人間に関わるものであり、人間に関わるということは法律という問題に関わるのだが、動物は法律の下にある存在ではない。少なくとも、動物が人間を殺したからといって、動物専用の刑務所に連れて行かれる、ということはない。

 旧約聖書によれば、動物性愛の禁止事項はレビ記に書かれてあるものだ。これは同性愛を禁止する項の下に「あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである (Wikisource)」と書かれてある。

 だが、このようにわざわざ書かれてあるということは、言ってしまえば同性愛と同じように、動物を性的で見るということはたびたびあった、ということを示唆している。禁止というのは、要は人間がその行為が可能だからこそ意味が生まれるからだ。

 そういう意味では、バルザックの「砂漠の情熱」という短編は興味深いものである。以下は岩波文庫の『知られざる傑作』から引用したものである。

それはめすであった。腹から腿にかけて毛が白く売っていた。びろうどのような小さな斑紋がいくつか、脚のまわりにきれいな輪をつくっていた。背中の毛皮はつや消しの金のような黄金だったが、すべすべしていて手ざわりもよさそうだし、豹と他の猫科の動物を見分けるのに役たつバラ形にぼかした特徴のある斑点をもっていた。ちょうど長椅子のクッションの上でねている猫とおなじほど優美な姿勢で、もの静かな、しかも恐るべき洞窟のあるじはいびきをかいていた。武装十分の、筋ばった前脚は血にまみれていたが、それを前に突き出し、その上にのせた顔には銀綿のようにまっすぐなひげがまばらに生えていた。檻のなかでこんなふうにしていたら、この兵士にしてもたしかに相手の美しい姿や、彼女の裾長の衣に帝王らしい光彩おあたえているあざやかな色合いの力づよい対照を、ほれぼれと眺めたかもしれない。(p.14)

 この小説が特異なのは、このような動物が「人間の女性のよう」に見えてしまうという部分にある。

けれど彼は、さもいとしけに彼女を眺め、相手に催眠術をかけるようなあんばいに横目をくれながら、近寄るままにさせた。それから世にもあいらしい女を愛撫すようとするかのような、やさしい恋いこがれた身ぶりで、豹の黄色い背中を左右に二分するしなやかな椎骨を爪でかきながら、頭から尾とからだじゅうをなでてやった。豹は快楽に酔って尾をもちあげ、目はやわらいだ。三度ばかり、欲得ずくのそのお世辞をつとめおわると、彼女は猫がうれしいときにするあのゴロゴロを聞かせた。けれどそのつぶやきはじつに力強く奥ぶかいのどから出たので、お寺のパイプオルガンの最後のうなりのように洞窟のなかにひびいた。愛撫の大切なことをさとった兵士は、このイヤに横柄にかまえた娼婦をぼうっとさせ麻痺させるようなふうに、何度もそれをくりかえした。(p.16)

 とある論文 によれば、バルザックが小説のモチーフとしてこういった動物に焦点をあてるということは殆どなくなったらしく「以降は、本物の動物が物語の重要な役を与えられることはなく、動物比喩として多用される。félin は勇敢さ、誇り高さ、冷酷さ、怒り、など内面的な精神性をあらわすために用いられるものが多い。そして、読者はたびたび出てくる動物比喩に無意識的に導かれ、知らず知らずに物語の展開を予見するようになる。それゆえ物語が進むにつれて読者はその展開を必然と感じるようになる。これがバルザックの動物比喩の特徴的一例といる」と述べている。

 言いかえれば、動物が人間として見れるとするならば、人間もまた動物として見れるということだろう。ドゥルーズマゾッホを紹介しながら言うように「ここには動物が女と区別がつかず、また男が動物とも区別のつかないような、未決定のゾーン」(『批評と臨床』)があると言うことが出来る。

 エロティズムの問題が難しいのは、バタイユが指摘するように常にこのような侵食と侵犯に満たされているからだと言うことは間違いなく、従って、エロディズムを統制しようとする試みは「動物を性的な目で見る」という可能性を否認する全体主義的な排除と非常に近いものになっていくことは、もう少し意識されてもいいかもしれない。今でこそ同性愛は受け入れられるようになったものの、未だに「繁殖を志向する生命の本質的なあり方と真っ向から相反するもの」として否認されている部分があるのは間違いないわけだから。

 真木悠介氏の『気流の鳴る音』には、こんな文章が書かれてある。

 身体障害者がたとえば片手で食事をする。ごはんをこぼしたり奇妙な身の動かし方をしたりする。それは一般の人間にコッケイだという感じを与える。しかしそれを笑ったりすることは許されないことだ、というのが一般の良心的な差別反対運動の精神である。けれども紫陽花邑ではちがう。おかしいものはおかしいやないか、といって屈託なく笑う。その本人もいっしょになって笑う。それが紫陽花村の世界だ。両手のそろった人間がメシを食うよりも、片手の人間がメシを食うことはたのしいことだ。

 「障害者」ということば自体が、差別語でありけしからん、という議論がなされる。紫陽花色の人は、「この人は重度の身障者です」というようなことを、そこにホクロがあるというようにさらりと言ってしまう。そのことがそこにいっしょに立っている本人を決して傷つけないだけの、関係の実質をもっているからだ。

 差別語を問題にすることは、差別語においてたまたま露出してくる関係の実質に切り込むための糸口としてのみ重要だ。ひとつひとつの差別語が差別語として流通することを支える、この関係の総体性に切りこむことなしに、差別語を言語それ自体のレベルですくい取ってリストを作り、他の無差別語か区別語に言いかえることは矛盾のいんぺいにすぎず、「新平民」とか "handicapped" とか「目の不自由な方」というような、新しい差別語を増殖させるだけだ。(p.22)

 現実に対する下品な物言いというのは、それが差別意識から来ていると同時に、その差別意識というものが一つの真実から来ているという言い方も出来るだろう。例えば、何かと発言するたびに誹謗中傷を受け、それによって日常的に苛立ちや不安感を募らせ「SNSを辞めたい」と愚痴をこぼすようなインフルエンサーが、アカウントを消して活動に集中するとしたとしても、気がついたらそのSNSに復帰しているというようなことがたびたび起きる現代社会において、SNSを「シャブ」と呼ばずしてなんと呼べばいいのかはわからない。

 例えば、未成年売春というのが犯罪であり、それが「援助交際」だとか、あるいは「パパ活」という言葉で言い換えられて来た。それらは確かに買う側の男の都合であるという側面は否定してはならないのだが、しかし「未成年売春」というその真実に最も傷ついているのは当の売り手であって、自らが傷つきたくないためにあえて軽い言葉を使っているという側面にも気が付かなければ、それらの用法に対する誤魔化し(それは売春だろう)に対する指摘が片手落ちになるのにも似ている。

 ジジェクは一時期において「カフェイン抜きのコーヒー」という比喩を多用している。その意図としては、いわば「毒物こそが快楽の根源」だったものを、その毒性を抜こうとして快楽を得ようとするような、そういった矛盾のあり方を指し示していたように思う。そこで、カフェインが嫌われるような世界になったと仮定した時「カフェイン抜きのコーヒー」という言い方は、コーヒー自体が健康を阻害するものという誤解を生みかねないとして、「健康志向のコーヒー」だとか「身体をいたわるためのコーヒー」だと言い換えなくてはならないとされるとは言える。それがコーヒー販売店の信念として「カフェイン抜きのコーヒー」がどれだけ「ニセモノ」だったとしても、ニセモノを売りつけることは職業倫理的に罪であり、また顧客を騙すこととして断罪されてしまう。

 もちろん、不適切な単語はそれなりの批判と断罪がされないといけないが、しかし今やそれが開いた矛盾というものを考えずして、その人々が首を切られたことによって満足しているのはまたそれはそれで首を傾げるものではある。そういう穢れというのを共同体の外へと送り返すことが、いわば供養の役目といえばそうなのだが、しかしそれが近代社会なのだろうかというと、余りにも遠いものであることは疑いようがない。その意味では、スピノザの下のような言葉は一考に値すると思う。

 だが若し聖書の中に見出されるこの種の事柄が皆比喩的に解釈され・理解されねばならぬとしたなら、聖書は大衆乃至無共用な民衆のためにでなくて単に識者たちのために、殊に哲学者たちの為に書かれたことになるであらう。のみならず、若し我我が今しがた述べたやうな事柄を敬虔に且つ素直に神について信ずることが神を瀆すことであるとしたら、予言者たちは確かに――少なくとも民衆の精神的な弱さの故に――そうした表現法を極力避け、反対に、各人が容認せねばならぬ神の属性を何よりも先に明確にはつきりと教へなければならぬ筈であつたが、然しさういふことはどこにも行はれてゐないのである。

 故に我々は、行ひと関係なしにそれ自体で観られた意見が何らかの敬虔或は不敬虔を自らの中に含んでゐるとは決して信じてはならぬ。或人の信仰が敬虔或は不経験であると言はれ得るのはその人が自己の意見に依つて服従へ駆られ或はそれに依つて犯罪乃至反逆へ誘はれる限りに於てのみである。若し或人が本当のことを信じてゐながら不従順になるとすればその人は実際に於て不敬虔な信仰を持つてゐるのであり、反対に、謝れることを信じても従順であればその人は敬虔な信仰を持つてゐるのである。何故なら、我々の示した通り、神への真の認識は神の命令ではなくて神の賜物であり、神は自己の神的正義と愛の認識(この認識は学問の為にではなくてただ服従の為に必要なのである)以外の如何なる認識をも人々に要求しなかつたのであるから。(『神学・政治論 下巻』, 岩波文庫, 畠中尚志 訳, p.126)