Archive

 真木悠介氏の『気流の鳴る音』には、こんな文章が書かれてある。

 身体障害者がたとえば片手で食事をする。ごはんをこぼしたり奇妙な身の動かし方をしたりする。それは一般の人間にコッケイだという感じを与える。しかしそれを笑ったりすることは許されないことだ、というのが一般の良心的な差別反対運動の精神である。けれども紫陽花邑ではちがう。おかしいものはおかしいやないか、といって屈託なく笑う。その本人もいっしょになって笑う。それが紫陽花村の世界だ。両手のそろった人間がメシを食うよりも、片手の人間がメシを食うことはたのしいことだ。

 「障害者」ということば自体が、差別語でありけしからん、という議論がなされる。紫陽花色の人は、「この人は重度の身障者です」というようなことを、そこにホクロがあるというようにさらりと言ってしまう。そのことがそこにいっしょに立っている本人を決して傷つけないだけの、関係の実質をもっているからだ。

 差別語を問題にすることは、差別語においてたまたま露出してくる関係の実質に切り込むための糸口としてのみ重要だ。ひとつひとつの差別語が差別語として流通することを支える、この関係の総体性に切りこむことなしに、差別語を言語それ自体のレベルですくい取ってリストを作り、他の無差別語か区別語に言いかえることは矛盾のいんぺいにすぎず、「新平民」とか "handicapped" とか「目の不自由な方」というような、新しい差別語を増殖させるだけだ。(p.22)

 現実に対する下品な物言いというのは、それが差別意識から来ていると同時に、その差別意識というものが一つの真実から来ているという言い方も出来るだろう。例えば、何かと発言するたびに誹謗中傷を受け、それによって日常的に苛立ちや不安感を募らせ「SNSを辞めたい」と愚痴をこぼすようなインフルエンサーが、アカウントを消して活動に集中するとしたとしても、気がついたらそのSNSに復帰しているというようなことがたびたび起きる現代社会において、SNSを「シャブ」と呼ばずしてなんと呼べばいいのかはわからない。

 例えば、未成年売春というのが犯罪であり、それが「援助交際」だとか、あるいは「パパ活」という言葉で言い換えられて来た。それらは確かに買う側の男の都合であるという側面は否定してはならないのだが、しかし「未成年売春」というその真実に最も傷ついているのは当の売り手であって、自らが傷つきたくないためにあえて軽い言葉を使っているという側面にも気が付かなければ、それらの用法に対する誤魔化し(それは売春だろう)に対する指摘が片手落ちになるのにも似ている。

 ジジェクは一時期において「カフェイン抜きのコーヒー」という比喩を多用している。その意図としては、いわば「毒物こそが快楽の根源」だったものを、その毒性を抜こうとして快楽を得ようとするような、そういった矛盾のあり方を指し示していたように思う。そこで、カフェインが嫌われるような世界になったと仮定した時「カフェイン抜きのコーヒー」という言い方は、コーヒー自体が健康を阻害するものという誤解を生みかねないとして、「健康志向のコーヒー」だとか「身体をいたわるためのコーヒー」だと言い換えなくてはならないとされるとは言える。それがコーヒー販売店の信念として「カフェイン抜きのコーヒー」がどれだけ「ニセモノ」だったとしても、ニセモノを売りつけることは職業倫理的に罪であり、また顧客を騙すこととして断罪されてしまう。

 もちろん、不適切な単語はそれなりの批判と断罪がされないといけないが、しかし今やそれが開いた矛盾というものを考えずして、その人々が首を切られたことによって満足しているのはまたそれはそれで首を傾げるものではある。そういう穢れというのを共同体の外へと送り返すことが、いわば供養の役目といえばそうなのだが、しかしそれが近代社会なのだろうかというと、余りにも遠いものであることは疑いようがない。その意味では、スピノザの下のような言葉は一考に値すると思う。

 だが若し聖書の中に見出されるこの種の事柄が皆比喩的に解釈され・理解されねばならぬとしたなら、聖書は大衆乃至無共用な民衆のためにでなくて単に識者たちのために、殊に哲学者たちの為に書かれたことになるであらう。のみならず、若し我我が今しがた述べたやうな事柄を敬虔に且つ素直に神について信ずることが神を瀆すことであるとしたら、予言者たちは確かに――少なくとも民衆の精神的な弱さの故に――そうした表現法を極力避け、反対に、各人が容認せねばならぬ神の属性を何よりも先に明確にはつきりと教へなければならぬ筈であつたが、然しさういふことはどこにも行はれてゐないのである。

 故に我々は、行ひと関係なしにそれ自体で観られた意見が何らかの敬虔或は不敬虔を自らの中に含んでゐるとは決して信じてはならぬ。或人の信仰が敬虔或は不経験であると言はれ得るのはその人が自己の意見に依つて服従へ駆られ或はそれに依つて犯罪乃至反逆へ誘はれる限りに於てのみである。若し或人が本当のことを信じてゐながら不従順になるとすればその人は実際に於て不敬虔な信仰を持つてゐるのであり、反対に、謝れることを信じても従順であればその人は敬虔な信仰を持つてゐるのである。何故なら、我々の示した通り、神への真の認識は神の命令ではなくて神の賜物であり、神は自己の神的正義と愛の認識(この認識は学問の為にではなくてただ服従の為に必要なのである)以外の如何なる認識をも人々に要求しなかつたのであるから。(『神学・政治論 下巻』, 岩波文庫, 畠中尚志 訳, p.126)

1994年の『社会学辞典』から「搾取」という言葉を調べる

 つい最近、死去なされた社会学者の見田宗介編集委員となって発刊された『縮刷版・社会学事典』が手元にある。今となっては時代背景もあり、古臭い説明も多いのだが、しかし同時に現代的な説明ではないが故に、はっと見開かされることがある。例えば、「搾取」という言葉を引くと次のような言葉が載っている。

階級社会において、生産手段を私的に所有する支配階級が、直接生産者たる被支配階級に対し、かれの生存に必要な労働生産以上の余剰生産物を生産させ、これを領有することである。資本主義社会では、自己の労働力を商品として売る賃金労働者の余剰労働の成果(絶対的余剰価値ならびに相対的余剰価値)を領有する形態をとる。

 この記述は非常に退屈なものではある。なぜ退屈かといえば、いわば教科書的なマルクス主義の用語であるからだ。しかし、次に続く言葉は非常に興味深いところである。

ところで、人間が全面的に発達し成長していく際の基盤となる教育や家族の領域にまで資本の論理が浸透し、精神的活動やその成果さえもその論理に貫かれた「機能的」な関係に包摂されていく自体の進行は、現代的な搾取の形態として、いわば文化的搾取として位置づけられる性格をもっている。

 確かに今となって不思議なのは、人間の活動形態において「資本の論理」というものが、あまり意識されない点にあるということにあるだろう。では、資本の論理とは何か。そのヒントというのが、マルクスの『資本論』(岩波文庫,向坂逸郎 訳)に置いて書かれている文章にあるように思う。

労働力は、ただ生ける個人の能力として存するのみである。したがって、その生産は、彼の生存を前提とする。個人の生存を与えられたものとすれば、労働力の生産は、彼自身の再生産または維持である。彼の維持のために、生ける個人は、一定量の生産手段を必要とする。労働力の生産に必要なる労働時間は、かくして、この生産手段の生産に必要なる労働時間に解消される。即ち労働力の価値は、その所有者の維持のために必要なる生活手段の価値である。だが、労働力はただその支出によってのみ実現される。(p.297)

 ここで今回の論旨で指摘しておかなければいけないのは、いわば私たちは労働するためには、その労働力を再生産しなければいけないということだ。そして、それを売り買いすることによって初めて(簡単に言えば、労働にでかけて初めて)その維持に必要なお金になるということだ。

 私たちはなんとか再生産できなくなるまで壊れないように、修復しながら日々を生きていかなければならない。そこで、一つの再生産の方法として「性」が駆動される、ということは指摘されてもいい。問題は、このようにして生存の維持のために払われる労働力と、その労働力を維持するための経済活動という循環の中で、「性」が組み入れられているという事実を「性的搾取の表現」という指摘自体が覆い隠してしまうという側面にある。

 もう少し踏み込んで、真木悠介見田宗介氏の別名であるが)の『気流の鳴る音』に書かれた文章を引用してみよう。

 われわれが他者と関係するときに抱く基本の欲求は、二つの異質の相を持っている。一方は他者を支配する欲求であり、他方は他者との出会いへの欲求である。操作や併合や利用や契約は、もちろん支配の欲求の妥協的バリエーションとしてとらえられうる。

 支配の欲求にとって他者とは、手段もしくは障害であって、他者が固有の意思をもつ主体として存在することは、状況のやむをえぬ真実として承認されているにすぎない。(p.201)

 問題は「状況のやむをえぬ真実」ということが、その指摘を素直に飲み込むことを邪魔しているということにある、という事が可能である(いや、状況は遥かに悪いかも知れない。なぜなら、他者が固有の意思を持つという自体すらも否認してまうほど「状況のやむをえぬ真実」が覆い隠しているとも言えるからだ)。

 コロナ禍でリモートワークが徐々に浸透してきたとはいえ、過剰な満員電車の存在が労働者の単一性を表現したのは間違いない。たとえ資本主義が終わらなくても、本来は月曜日の憂鬱のさいに、今日は出社するのが嫌だなと思ったら、会社とは逆方向の電車に乗り、海を見て波の音を聞いて過ごすことができるほどの労働への多様性もまた求められていたはずのような気はしているのである。

ライオンは立派だが、狼はやっぱり悪党だ

 良く知られていることであるが、グリム童話はグリム兄弟によって集められた昔話が元になっている。しかし、その昔話というのが、いわば上品な方々が顔を顰めるものであったため、版を重ねるごとに改修されていき、いわば元の話とは似つかぬものになってしまった、とも言われている。私たちが手にする童話といった類のものは、まずは「親御さんが子供の教育に良いと思うもの」というイメージがあるためか、そのようなイメージを裏切るという意味で、一九九八年に『本当は怖いグリム童話』がベストセラーになっている。

 そのように「子どもたちに読み聞かせるもの」みたいなイメージが高い、そのような童話というのは、元はといえば寓話から着想を得ている。教訓のある話は、まずは子どもたちに聞かせるものだ、というわけだ。だが、子どもたちが単純に教訓だけを受け取っているかどうかは疑わしい。単純に、誰かが酷い目にあっている様子を見て、ケラケラ笑っているという可能性だってある。そういう話を人間で書けばグロテスクではあるが、動物で書けば雰囲気も和らぎ、滑稽さが強調される。

 もはやウクライナ侵攻によって、ほぼ悪者のイメージがついているロシアの作家の寓話集である『クルイロフ寓話集』(岩波文庫)を読んで考えていたのはそういうことである。この作品が雑誌に掲載され始めたのは、一八〇八年だそうだ。だが、このクルイロフそいう作家は、どちらかというと風刺作家の側面を持っているようで、寓話集を読んでみると「教え諭す」というよりも、社会についての教訓にならない身も蓋もない現実に書いたものが多くあることに気がつく。

 解説によれば、この寓話を書いているときには、反政府的なことを書かないようにと監視役が立てられていたらしく、幾つかの作品は雑誌にはのらず、あとから収録されたものもあるらしい。例えば「斑の羊たち」は、その典型的な例となる。  

 ライオンが斑の羊たちに嫌気がさした。この羊たちをあっさり殺してしまうことは、ライオンには造作もないことである。しかし、それでは法にそむくことになる。ライオンが森で王冠を戴いているのは、民を抑圧したり、民に制裁を加えるためではない。しかし、斑の羊を見るのは我慢がならなかった。どうしれば斑の羊たちを始末して、しかも世間体を保てるだろうか?そこでライオンは、熊と狐を呼んで意見を求めた。斑の羊を見るたびに、一日じゅう目の具合が悪くなり、そのうちに完全に視力を失うことになるだろう。どうすればこのような災害を免れることができるのかさっぱりわからない。とこっそり彼らに打ち明けた。熊が眉をしかめて言った。

「権勢並びないライオンさま!このさい、何の必要があって議論を重ねるのですか?羊どもを絞め殺すよう即刻お命じください。やつらを不憫に思う者がいるでしょうか?」

 狐はライオンが眉をひそめたのを見て、謙遜して言う。

「ああ、王よ!われらの善良なる王よ!あなたはおそらく、このあわれな生き物を迫害することを禁じられ、理由のない血は流されないでしょう。失礼ながら、わたくしめが別の助言させていただきます。母羊にとっては、飼料の豊富な、子羊にとっては、飛び跳ね駆けまわることのできる牧草地をあてあがうようお命じください。そして、当地では羊飼いが不足しておりますので、羊どもの放牧は狼にお命じください。なぜかは存じませんが、斑の羊の一族はひとりでに絶滅するように思われます。それまでは楽しませてやればよいのです。そうすれば、何が怒りまして、あなたさまにはかかわりのないことでございます。」

 会議では狐の意見が通って、首尾よく実行に移され、あげくのはて、ここでは斑の羊だけではなく、単色の羊までも減ってしまった。これにたいしで、獣たちのあいだではどんなうわさが立っただろう。

 ライオンは立派だが、やっぱり狼は悪党だ。

 興味深いことに、このクルイロフ寓話集には、このように善良な動物が、不条理ないちゃもんを付けられて酷い目に合わされるという寓話についで、もう一つのパターンを載せている。

 子羊が暑い日に水を飲みに小川にやって来た。困ったことが起きるにちがいない。飢えた狼が、獲物を求めてちかくを うろついていたのだから、子羊を見て、狼は獲物をめがけて突進する。それでも、自分の行為にもっともらしい口実や意味をあたえようと、わめき立てる。

(以下略)

「わたしが、どんな悪いことをしたのでしょうか?」

「だまれ!おれは聞きあきた。おれにおまえの罪を調べているひまがあるか、青二才!おれが食いたいという理由でおまえは罪があるんだ。」

 他の点で、このパターンが興味深いのは、いわゆるポルノグラフティにおいても、このような本人たちがこのようにやりたいという欲望を、受動的なもの(「あなたがそのようにさせるから、仕方なくやるのだ」)に変換させるという操作がちらほら見えるのである。このような話が二百年前に書かれているとするならば、むしろ「能動的な欲望を受動的に享受する」という形式自体が、一つの権力の発動形態として、良くある形態であるということができるだろう。どんな横暴な暴君であれ「あいつが気に食わないから、とっちめてやれ」だけでは上手くいかず「あいつが気に食わなくて、かつあいつは悪いやつだ。だからとっちめてやれ」というのが、権力の発動条件として成立しているという側面を考慮しなければいけない。

 従って、例えば特に現代において「いじめ」と呼ばれるものの多くに「そうはいっても、いじめられた奴も悪いやつなんだよ」という言い分が出てくるが、しかしそれこそが、そもそそういった暴力のトリガーになっているという側面は明確にある。アメリカのアフガン侵攻も、テロとの戦いであったわけだし、ロシアですら、彼らのウクライナへの侵攻の理由は「非ネオナチ化」であったことを思い浮かべればわかりやすい。

 少なくとも、私はこの手の寓話に対し、まだ教訓を与える自信はまったくない。

真実を口にすれば嫌われる

 つい最近、『サミング・アップ』(モーム)を読んでいたのだが、そこに興味深い一節があった。

もし真実が最高の価値の一つであるのなら、真実がなんであるのかが誰にも正確に分からないというのは奇妙だ。哲学者は真実の意味に関していまだに争っていて、対立する学説の信奉者はお互いに皮肉ばかり言い合っている有様だ。こういう状況にあっては、素人は哲学者に議論させておき、素人なりの真実論でよしとするしかない。私の意見はこうだ。真実とはそれほど大袈裟な価値ではなく、個々の存在物について何事かを主張するに過ぎない。ただ事実をそのまま述べるだけである。もしこれが価値だとすれば、これほど無視されている価値はない。倫理学の本は、真実を発表しないほうが適切な場合を長ったらしいリストにして挙げている。こういう本の著者は、そういう面倒なことをわざわざするまでもなかったのだ。というのは、長い歳月の知恵は昔から、「たとえ真実であっても、自分の知っていることを喋ってもいいとは限らぬ」と教えているからだ。人間は自分の虚栄心、快適さ、利益のために真実を犠牲にしてきた。人は真実ではなく偽りによって生活している。私は時どき思うのだが、いわゆる理想主義とは、人が自惚れを満足させるために作り出したフィクションに真実の威光を与えようとする努力に過ぎないのではなかろうか。(p.321)

 本書において、モームは皮肉屋の芸術家である、みたいなことを繰り返し主張していて、本人の自己申告通り、皮肉屋で芸術家のような意見ではある。

 だが、この一文は、我々にとって真実に対する「真実」について、一つ示唆していることがある。

 それは端的に言えば「真実であっても、喋ってもいいとは限らぬ」ということである。

 しかし、なぜ「真実」について、喋っていいとは限らないときがあるのだろうか。それは直接説明するよりも、例えば、レヴィ・ストロースが『悲しき南回帰線(悲しき熱帯)』に収録されている名前の話を出すほうが良いかもしれない。

ある日、わたしが子供たちの一団と遊んでいたとき、女の子の一人が仲間に打たれた。彼女はわたしの側へ逃げて来て、いかにも秘密だというように、耳許へ何か囁きだした。わたしは何のことかわからなかったので、何度も聞き返さないではいられなかった。すると、喧嘩相手にその策略を読まれてしまって、相手は目に見えて怒り出し、今度はその子がどうもその厳粛な秘密らしいものを暴露しに来た。そしてわたしは少し手間どったり、聞き返したりしているうちに、その事件の鍵を完全に握ることができた。最初の女の子は復讐しようとして相手の名をわたしに教えに来たのだ。相手はそれに気づいて、同じやり口でもう一人の名をわたしに知らせた。このときから細かい心づかいを欠いたことではあるが、子供たちをお互いにけしかけて、彼らの名を全部手にいれることも容易になった。その後には、こうしてちょっとした同じ穴のむじなというか、彼らも悪いことをしたのであるから、大した困難もなく、子供たちから大人たちの名を聞き出すことができた。すると、大人たちにわれわれの秘密集会がわかって、子供たちは叱られ、わたしの情報源は涸れてしまった。(講談社文庫, 室淳介, p.123)

 この話が興味引かれるのは、それがいわば迷信から発したものであれ「真実は人を傷つけるために使える」ということだろう。例えば、あるコメディアンが誰かの病気について揶揄する場合、病気という部分については全く持って「真実」である。しかし、このような「真実」というのは傷つけてしまう。

 そこで、二つの態度が出てくる。

 その一つは「真実は人を傷つけるのならば、誰も傷つけずにおこう」とする態度。もう一つは「真実は人を傷つけてでも、言うべきだ」という態度である。

 いわゆる思想家のフーコーは、このような真理の言明について「パレーシア」という概念に着目する。論文によれば、パレーシアとは次のような定義になる。

まず,パレーシアという語の意味を確認しておこう。パレーシア parrêsia は,「すべて」 を意味する pan と「言われたこと」を意味する rêma という二つの語から作られており,「すべてを言うこと」という意味で使われた。言う主体のことは,パレーシアステース parrèsiastês と呼ばれる。これらの語は紀元前五世紀から後五世紀に至るまで,ギリシア,ローマ,初期のキリスト教の時代を通じて使われ続けた。

 次にフーコーは「パレーシア」の条件について検討している。まず一つには「真理を言うのには、何らかのリスクが伴うこと」。もう一つは「真理を語るためには、受け手にも喋り手にも勇気が必要である」ということだ。

 論文においては、それがどのような意図を持っているかはわからないが、少なくとも「すべてを言うということ」は「真理全体の命題」、つまり「傷つけるもの/傷つけないもの」を洗いざらい喋るということは、直感的には理解できる。そして、さらに重要なことは「真理によって傷つく準備をしなければならない」ということも意味している。

 もちろん、このようなものは、マイノリティの人々が多く傷つけられる機会を持ってしまう以上、簡単に採用していいというわけではない。しかし、やはり「真理が人を傷つけるもの」という前提がある以上、勇気を持って「真理を語ることで傷つける人」と「真理を受け取ることで傷つけられる人」という役回りの人が必要ではある。そして、その準備があって初めて、私たちは「真実」に触れられるという側面もあるということは、ここにメモしておこうと思う。