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「愚かさの弁護」について――エラスムスの『痴愚神礼賛』を読む

 日記。特に結論は無い。

 蓮實重彦という、フローベルを研究するフランス文学者が書いているところによると、「凡庸」の対義語は「才能」や「天才」なのではなく「愚鈍」である、ということらしい。このようにして蓮實重彦の名を借りて「愚鈍」について語ること自体が、既にクリシェ(紋切型)なわけで、そのように語ることに新鮮味はない。だが、そのような紋切を考えることにも意味はある。

 というのも、ここ最近、ある本を読みながら、この言葉について考えるようになったのである。

 それは、エラスムスの『痴愚神礼賛』(中公文庫)という本である。並行してラブレーの『カルガンチュア物語』も読んでいるのだが、それに比べればエラスムスの「風刺」は、元来下品な心情のものであるのにも関わらず、それを良識的な態度で望むという、いわば「生真面目な人」の本であるように感じて仕方ない側面がある。

 例えば、次の文章を読んでみよう。

人生に味わいを添えている、このうぬぼれというものを取り去ってご覧なさり。するとたちまちにして、弁論家は弁舌をふるう熱が冷めてしまい、音楽家が曲を奏でても飽きられてしまい、役者が役を演じても野次り倒され、詩人は詩作品ともども嘲笑され、画家はその作品の値を落とし、医者は薬の山に囲まれて飢え死にすることであしょう。とどのつまりは、ニレウスと見えた者がテルシテスに、パオンがネルトスに、ミネルヴァが豚に、能弁家かと思われた人物が、ことばもおぼつかない幼児に、都雅の人士が仕出しの田舎っぺにそう映ってしまうことになるのです。他人に褒められたいと思うなら、まずは自分自身にへつらって悦に入り、ちょっとばかり自分をおだてあげることこそが、大いに必要とされるのです。(p.59)

 このような一節を読めば、例えばこのように文章を書くという行為が如何に傲慢であるか、という気持ちに思いを馳せたりする。

 何故なら、自分が書くような意見というのは、常に何処で書かれている可能性があるわけでだし、誰かが書いているはずだし、わざわざ自分で書く必要がない、ということになる。ある意味において、書くということは、自分の「起源」に対して忘却しているからこそ、自分の意見として提出しないといけないということになるだろうし、そしてその忘却された「起源」に対して自分のほうが価値があるという傲慢さに結びつく。このような「痴愚」を前提としなければ、文章なんてとてもじゃなければ書けないし、うすうす人はそれを感じているからこそ、この一節を笑うように感じる。

 だが、エラスムスの『痴愚神礼賛』が不思議なのは、あらゆる痴愚を笑うのではなく、痴愚こそが神に与えられた恩寵であるという構造になっている。それは、人が持つ「愚かさ」に対する両義的な気持ちをそのまま現しているとも言える。例えば、「リア充」と呼ばれる、日々を楽しく生きている人たちが如何に薄っぺらいか、というのはよく語られるのであるが、同時にその人たちの「薄っぺらさ」こそが人生の本質なのではないか、という思いを抱かざるを得ないわけだ。

 とはいえ、人は凡庸さに耐えることが出来ない。多くの人々が立場的に成功しているにも関わらず、その成功に飽き足らずに、自分の知らない分野でろくでもない意見を述べたりすることがある。人はこれを「愚かさ」と呼ぶのだが、しかし自分が考えるに、これはむしろ彼自身が「自らの凡庸さ」に耐えきれなくなって押しつぶされたからに過ぎないとしか思えないのである。そしてその「凡庸さ」に耐えられないという事実そのものが、その人の「凡庸さ」を明らかにしてしまう。

 例えば、「文学」にしろ「政治」にしろ、自らの頭脳で鋭い意見をズバッと言い、それで問題が解決するというそのイメージそのものが「賢さのイメージ」である。裸一貫で何かを成し遂げるというイメージを無自覚に、制度的になぞるという行為こそが「凡庸さ」である。今となっては、エラスムス自身に、上に書かれた「凡庸さ」が宿っている側面は否めない。従って、彼の書いている「内容」は、実は驚くほど凡庸で、面白い部分はあるのにしても、良識的なそれにとどまっているように思える。

 しかし、本書の「形式」を考えた場合、明らかに「愚か」であると言っても良い。あるいは、自分が良く使う「不穏さ」と言っても良い。なぜこの文章が不穏であるかというのならば、『マグベス』の魔女が言う「きれいはきたない」ではないのだが、「おろかはかしこい」と言う側面に転じているからだ。変な話だが、「あなたたちは愚かです」と言いながら、「人生の真理とは愚かさである」の萌芽することになる。実際、本を読めば、「人生が愉快であるのは私のおかげである」と痴愚神が伸べる箇所が幾つも見つかる。

 このような「形式」に従い、エラスムスは「文学」と「政治」に二つの「愚かな人物」を呼ぶことになった。それがルターと、ラブレーである。ルターの伝記を読むと、彼が自らのやることが全くわからない(それは彼が教会の制度というものを全く理解できなかったことにも繋がる)が故の愚かさがみなぎってはいるし、またラブレーラブレーで、思いっきり自分の愚かな部分を剥き出しにして、下品で醜悪、そして抱腹絶倒で愉快な小説である『ガルガンチュア物語』を書くことになる。この二人による愚人であり偉人が、その後の世界を大きく動かしたということが出来る。

 最近になって思うのは、このような「愚かさ」に対する信頼の傷つきようである。私たちの社会全体が、多くの人々が愚かであり、愚かであるが故に、世界が悪い方向へ進んでいるという思い込みによって突き動かされている。しかし実際のところは、「愚か」であるというよりかは、何処かで見たような、倦怠を誘う「凡庸さ」こそに終始呆れているだけのようにも思える。私たちが自信を持って選び、そして賢明な判断だと信じていることの「凡庸さ」であり、そしてその「凡庸さ」に対して、余りにも無自覚であるということに対する苛立ちなのではないか。

 とはいえ、たまに見かけるように「知らないことを知っていることこそが賢い」という「無知の知」のような「愚かさに対する居直り」も、それ自体「凡庸」ではある。

 少なくとも、ソクラテス自身は、自分が無知であることに耐えられなかった筈であるからだ。