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ウェブ小説を書くことの恥ずかしさについて

日記。

最近は小説を書いている。

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 前者は、非転生系のギャグファンタジーだけれども、歴史考証があまりちゃんとしていないので、そのあたりに違和感があるかもしれない。    後者は、一発系の不謹慎ネタ。ただ不謹慎なだけなので、真面目な人は嫌悪感を催すとは思う。

 しかし小説を書くということは、何処か罪悪感というか、背徳感を覚える側面がある。それは本屋や図書館に行った時に、棚に並ぶ本を読めないことについて、何やら津波に押しつぶされるような感覚を覚えるのに、それは近い。

 だいたい一話更新する毎に、三千字から四千字ほど使うのだが、千文字打ち込むにつき一時間程度の時間を使う。従って、単純計算すれば、一日三時間から四時間程度の時間を使うということになる。しかし、これら三時間から四時間ほどの時間を使った場合、少なくとも一時間五十ページほどノロノロと読んだと考えて、百五十ページの本が読めた計算になる。

 「書く」ということは「読む」ということとトレードオフである。そして、現状として「書く」ということは「読む」ということの義務感を増幅させる筈だ。少なくとも本屋や図書館で繰り広げられる本の山というのは、何らかの形で「読ませたい」という希望において書かれたものであることは間違いがない。そのような声に傾けていると、「なぜこれほどまでに『読まれたい』ものがあるのに、書かなければならないのか?」と自問してしまう。

 この手の問いは「死にたいのに生きなければならないのか」という問いに似ていて、別に私が生きている必然性が無いのと同様、「書く」ということにたいして必然性が伴っているわけではないのに似ている。もちろん、とりあえずのところは、そのように溜息をつく人々に「生きて欲しい」と慰めることはできるし、「書き続けて欲しい」ということはできる。だが、それは目の前に持病でお腹を痛めている人がいれば、救急車を呼んでやるのが人道的である、というくらいの話だということだろうと思う。救急車に運ばれる病人のことを何時までも考えないのと同様ではある。

 しかし、恐らく多くの人たちは次のように考える筈なのである。「そもそも、読むことに義務はない」。これはその通りである。本、特に小説とは、それを読まずに済ますことができるという利点がある。日本人の多くはダンテの『新曲』を一ページも開いたことはないし、フローベールの『ボヴァリー夫人』を一ページも開いたことはない。それは健全な姿である。だからこそ「読んでください」といいながら、頭を下げて、自らの作品を売り込まなくてはならない。

 何よりもまず、そこに求められているのは図々しさだろうと思う。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や、あるいは司馬遼太郎、あるいはフィリップ・K・ディックでもいいだろう。そのように並べられる本棚の中に押し入り、自分の本が刺さることを期待しているからだ。それが図々しくなくて何だろう、と思うことはある。そして、それらの作品のかわりに、時間を使って読んでください、と言わなければならない。それらがまだ読まれるのを待っているのに、である。

 結論は出ない。それは「なぜ生きるのか」という問いが、基本的に結論が出ないように、「なぜ書くのか」という問いにも結論はでない。本音を言うならば、自分の書くのを止めて、大量に読んであげたいという気持ちはあるのだが、とりあえず書こうと思ったので、書き続けているのが現状ではあって、とはいえそういう風に考えれば、それなりに向上心を持って励む事が出来るというだけの話だろうとは思う。

 せいぜい「なぜ書くか」に対する答えというのは、「自分が書いていて楽しいから」だし「読み返して楽しいから」という結論だろう。それは子どもたちが砂場で遊ぶくらいの無邪気さが必要だし、その無邪気さを素朴に発揮できないくらいには老いてしまった。それ以上の、それ以下の答えは無い気はする。周囲を見渡せば、活字の荒野が広がっている。それは単に情報社会の作り出す幻影なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。ただそのような幻影が見えていることは確かで、そのような幻影を無視して眼の前の砂場で戯れているのも事実である、ということだけが残るのであった。