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ウェブ小説を書くことの恥ずかしさについて

日記。

最近は小説を書いている。

novelup.plus

kakuyomu.jp

 前者は、非転生系のギャグファンタジーだけれども、歴史考証があまりちゃんとしていないので、そのあたりに違和感があるかもしれない。    後者は、一発系の不謹慎ネタ。ただ不謹慎なだけなので、真面目な人は嫌悪感を催すとは思う。

 しかし小説を書くということは、何処か罪悪感というか、背徳感を覚える側面がある。それは本屋や図書館に行った時に、棚に並ぶ本を読めないことについて、何やら津波に押しつぶされるような感覚を覚えるのに、それは近い。

 だいたい一話更新する毎に、三千字から四千字ほど使うのだが、千文字打ち込むにつき一時間程度の時間を使う。従って、単純計算すれば、一日三時間から四時間程度の時間を使うということになる。しかし、これら三時間から四時間ほどの時間を使った場合、少なくとも一時間五十ページほどノロノロと読んだと考えて、百五十ページの本が読めた計算になる。

 「書く」ということは「読む」ということとトレードオフである。そして、現状として「書く」ということは「読む」ということの義務感を増幅させる筈だ。少なくとも本屋や図書館で繰り広げられる本の山というのは、何らかの形で「読ませたい」という希望において書かれたものであることは間違いがない。そのような声に傾けていると、「なぜこれほどまでに『読まれたい』ものがあるのに、書かなければならないのか?」と自問してしまう。

 この手の問いは「死にたいのに生きなければならないのか」という問いに似ていて、別に私が生きている必然性が無いのと同様、「書く」ということにたいして必然性が伴っているわけではないのに似ている。もちろん、とりあえずのところは、そのように溜息をつく人々に「生きて欲しい」と慰めることはできるし、「書き続けて欲しい」ということはできる。だが、それは目の前に持病でお腹を痛めている人がいれば、救急車を呼んでやるのが人道的である、というくらいの話だということだろうと思う。救急車に運ばれる病人のことを何時までも考えないのと同様ではある。

 しかし、恐らく多くの人たちは次のように考える筈なのである。「そもそも、読むことに義務はない」。これはその通りである。本、特に小説とは、それを読まずに済ますことができるという利点がある。日本人の多くはダンテの『新曲』を一ページも開いたことはないし、フローベールの『ボヴァリー夫人』を一ページも開いたことはない。それは健全な姿である。だからこそ「読んでください」といいながら、頭を下げて、自らの作品を売り込まなくてはならない。

 何よりもまず、そこに求められているのは図々しさだろうと思う。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や、あるいは司馬遼太郎、あるいはフィリップ・K・ディックでもいいだろう。そのように並べられる本棚の中に押し入り、自分の本が刺さることを期待しているからだ。それが図々しくなくて何だろう、と思うことはある。そして、それらの作品のかわりに、時間を使って読んでください、と言わなければならない。それらがまだ読まれるのを待っているのに、である。

 結論は出ない。それは「なぜ生きるのか」という問いが、基本的に結論が出ないように、「なぜ書くのか」という問いにも結論はでない。本音を言うならば、自分の書くのを止めて、大量に読んであげたいという気持ちはあるのだが、とりあえず書こうと思ったので、書き続けているのが現状ではあって、とはいえそういう風に考えれば、それなりに向上心を持って励む事が出来るというだけの話だろうとは思う。

 せいぜい「なぜ書くか」に対する答えというのは、「自分が書いていて楽しいから」だし「読み返して楽しいから」という結論だろう。それは子どもたちが砂場で遊ぶくらいの無邪気さが必要だし、その無邪気さを素朴に発揮できないくらいには老いてしまった。それ以上の、それ以下の答えは無い気はする。周囲を見渡せば、活字の荒野が広がっている。それは単に情報社会の作り出す幻影なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。ただそのような幻影が見えていることは確かで、そのような幻影を無視して眼の前の砂場で戯れているのも事実である、ということだけが残るのであった。

「愚かさの弁護」について――エラスムスの『痴愚神礼賛』を読む

 日記。特に結論は無い。

 蓮實重彦という、フローベルを研究するフランス文学者が書いているところによると、「凡庸」の対義語は「才能」や「天才」なのではなく「愚鈍」である、ということらしい。このようにして蓮實重彦の名を借りて「愚鈍」について語ること自体が、既にクリシェ(紋切型)なわけで、そのように語ることに新鮮味はない。だが、そのような紋切を考えることにも意味はある。

 というのも、ここ最近、ある本を読みながら、この言葉について考えるようになったのである。

 それは、エラスムスの『痴愚神礼賛』(中公文庫)という本である。並行してラブレーの『カルガンチュア物語』も読んでいるのだが、それに比べればエラスムスの「風刺」は、元来下品な心情のものであるのにも関わらず、それを良識的な態度で望むという、いわば「生真面目な人」の本であるように感じて仕方ない側面がある。

 例えば、次の文章を読んでみよう。

人生に味わいを添えている、このうぬぼれというものを取り去ってご覧なさり。するとたちまちにして、弁論家は弁舌をふるう熱が冷めてしまい、音楽家が曲を奏でても飽きられてしまい、役者が役を演じても野次り倒され、詩人は詩作品ともども嘲笑され、画家はその作品の値を落とし、医者は薬の山に囲まれて飢え死にすることであしょう。とどのつまりは、ニレウスと見えた者がテルシテスに、パオンがネルトスに、ミネルヴァが豚に、能弁家かと思われた人物が、ことばもおぼつかない幼児に、都雅の人士が仕出しの田舎っぺにそう映ってしまうことになるのです。他人に褒められたいと思うなら、まずは自分自身にへつらって悦に入り、ちょっとばかり自分をおだてあげることこそが、大いに必要とされるのです。(p.59)

 このような一節を読めば、例えばこのように文章を書くという行為が如何に傲慢であるか、という気持ちに思いを馳せたりする。

 何故なら、自分が書くような意見というのは、常に何処で書かれている可能性があるわけでだし、誰かが書いているはずだし、わざわざ自分で書く必要がない、ということになる。ある意味において、書くということは、自分の「起源」に対して忘却しているからこそ、自分の意見として提出しないといけないということになるだろうし、そしてその忘却された「起源」に対して自分のほうが価値があるという傲慢さに結びつく。このような「痴愚」を前提としなければ、文章なんてとてもじゃなければ書けないし、うすうす人はそれを感じているからこそ、この一節を笑うように感じる。

 だが、エラスムスの『痴愚神礼賛』が不思議なのは、あらゆる痴愚を笑うのではなく、痴愚こそが神に与えられた恩寵であるという構造になっている。それは、人が持つ「愚かさ」に対する両義的な気持ちをそのまま現しているとも言える。例えば、「リア充」と呼ばれる、日々を楽しく生きている人たちが如何に薄っぺらいか、というのはよく語られるのであるが、同時にその人たちの「薄っぺらさ」こそが人生の本質なのではないか、という思いを抱かざるを得ないわけだ。

 とはいえ、人は凡庸さに耐えることが出来ない。多くの人々が立場的に成功しているにも関わらず、その成功に飽き足らずに、自分の知らない分野でろくでもない意見を述べたりすることがある。人はこれを「愚かさ」と呼ぶのだが、しかし自分が考えるに、これはむしろ彼自身が「自らの凡庸さ」に耐えきれなくなって押しつぶされたからに過ぎないとしか思えないのである。そしてその「凡庸さ」に耐えられないという事実そのものが、その人の「凡庸さ」を明らかにしてしまう。

 例えば、「文学」にしろ「政治」にしろ、自らの頭脳で鋭い意見をズバッと言い、それで問題が解決するというそのイメージそのものが「賢さのイメージ」である。裸一貫で何かを成し遂げるというイメージを無自覚に、制度的になぞるという行為こそが「凡庸さ」である。今となっては、エラスムス自身に、上に書かれた「凡庸さ」が宿っている側面は否めない。従って、彼の書いている「内容」は、実は驚くほど凡庸で、面白い部分はあるのにしても、良識的なそれにとどまっているように思える。

 しかし、本書の「形式」を考えた場合、明らかに「愚か」であると言っても良い。あるいは、自分が良く使う「不穏さ」と言っても良い。なぜこの文章が不穏であるかというのならば、『マグベス』の魔女が言う「きれいはきたない」ではないのだが、「おろかはかしこい」と言う側面に転じているからだ。変な話だが、「あなたたちは愚かです」と言いながら、「人生の真理とは愚かさである」の萌芽することになる。実際、本を読めば、「人生が愉快であるのは私のおかげである」と痴愚神が伸べる箇所が幾つも見つかる。

 このような「形式」に従い、エラスムスは「文学」と「政治」に二つの「愚かな人物」を呼ぶことになった。それがルターと、ラブレーである。ルターの伝記を読むと、彼が自らのやることが全くわからない(それは彼が教会の制度というものを全く理解できなかったことにも繋がる)が故の愚かさがみなぎってはいるし、またラブレーラブレーで、思いっきり自分の愚かな部分を剥き出しにして、下品で醜悪、そして抱腹絶倒で愉快な小説である『ガルガンチュア物語』を書くことになる。この二人による愚人であり偉人が、その後の世界を大きく動かしたということが出来る。

 最近になって思うのは、このような「愚かさ」に対する信頼の傷つきようである。私たちの社会全体が、多くの人々が愚かであり、愚かであるが故に、世界が悪い方向へ進んでいるという思い込みによって突き動かされている。しかし実際のところは、「愚か」であるというよりかは、何処かで見たような、倦怠を誘う「凡庸さ」こそに終始呆れているだけのようにも思える。私たちが自信を持って選び、そして賢明な判断だと信じていることの「凡庸さ」であり、そしてその「凡庸さ」に対して、余りにも無自覚であるということに対する苛立ちなのではないか。

 とはいえ、たまに見かけるように「知らないことを知っていることこそが賢い」という「無知の知」のような「愚かさに対する居直り」も、それ自体「凡庸」ではある。

 少なくとも、ソクラテス自身は、自分が無知であることに耐えられなかった筈であるからだ。

Twitchでゲーム配信をする異常者が、異常者に粘着されるというこの世の地獄よ

f:id:nisemono_san:20190214172339p:plain 「異常者」という奴のは、ちょっとコミュニティーを変えれば違う自分を見せられると勘違いするが、これが甘い考えであって、異常者というのは何処へ行っても悪目立ちするから異常者なのだ。だから、異常者がコミュニティーを渡り歩くことを「焼畑農業」といって揶揄されたりする。

自分の場合はどうか。自分の場合は、ゲーム実況という場で、そういう悪目立ちをすることになる。

ゲーム実況という営みは、もう日本の若者文化に充分根差した存在になっている。最近、コンビニの店内ラジオなんかを聞いていると、ゲーム実況主がMCを担当してびっくりしたものだし、自分がヴァーチャルユーチューバーを調べたときは、今後の活動の計画が、だいたいゲーム実況であった。今の若い人にとって、何かインターネットで活動したい、有名になりたいと考えた場合、ゲーム実況という選択肢が出てくるようになった。

俺がゲーム実況をやりはじめたきっかけは、とある人がやっていたから、という単純なものである。その人がやっていたから、じゃあ俺もやってみようという軽いものであった。その俺がゲームを配信を始めるきっかけになった人は配信中の暴言のせいか、TwitchからBANされた。Twitchは海外サービスのせいもあって、人種差別的な発言には非常に厳しいようだ。

俺はその時までゲーム実況なんて殆ど見たことはなかった。たまに炎上して過去の人となった配信者の動画をアーカイブで見て「面白いな、過去にこんな異常者もいたんだな」と、自分の異常性を棚に上げて面白がるくらいだった。

日本のインターネットコミュニティーにおいて特徴的なことの一つとして、その集まりにおける作法みたいなものが存在している、ということだ。有名どころだと淫夢がそれにあたる。彼らは、自分たちの「内輪のコミュニケーション」でお互いが仲間であることを確認する。場合によっては、それが「一般的なコミュニケーション」のように振る舞い、迷惑をかけることを厭わない。自分が察するに、その迷惑をかけるという行為は身内に向けられたメッセージであって、外に向けたメッセージではないからだ。だから、彼らにとって、「迷惑をかけている人間」というのは、はなから存在していない。身内で「ああ面白かった」と言えればいいのである。

Twitchでも、このような状態が、とあるゲームの配信界隈で生まれてしまった。そのきっかけとなった、ゲームの配信者の名前を仮にGとする。

Gがやっていたゲームは、簡単に言ってしまうと、味方と協力しあって勝利に導くゲームであった。ところが、Gは味方に対する暴言であったり、あるいは炊く(=怒る)といった行為で注目されていた。長時間プレイしていたことも、注目される要因の一つだろう。これ自体はよくある話なのだが、ポイントは一つだけで、Gはこのゲームコミュニティーにおいて、「プチミーム」的な存在になってしまったということである。ヘンな話だが、村に伝わる祟り神くらいには、皆知っているという存在ととらえたらいいだろうか。外にいったら誰も知らない、というところが村だけの風習っぽさをさらに際立たせる。実際は、自殺宣言騒動とか、いろいろあったが、それは置いておくとしよう。

まずそれらの行動に、他人の有名な配信者のところで、適当な宣伝文句を付けて、そのチャンネルを宣伝する。例えば、自分の場合であるならば、「70歳のおじいちゃんがゲームをプレイする配信」という文句で宣伝されたし、また「女子高生がこの配信で脱いでます」という文句で宣伝されたこともある。この宣伝の意図は、調べた限りではよくわからない。単純に祭り上げの可能性がある。ただ、こちらはスルーしていればいいし、場合にはフォロワーにもなるので、特に問題はない。

もう一つの問題は、その人に似た名前のIDを作るということである。このブログの画像にも張り付けたように、自分の名前でも5つほどの名前がついている。これがあまりよくはなくて、どうしてかというと、名前というのは、どうしてもその本人の印象を決定づけてしまう。自分の名前で、変な活動をされた場合、その活動の印象が付いてしまうということが起きる。例えば、「お前、俺のところで悪口言ってただろ」と絡まれるのは、正直お互いに良くはないし、身の覚えのないことを色々とやられるのはたまったものではない。もっと酷いのになると、例えば「えせはらは障碍者」みたいな名前を付けてくる悪質な人間もいる。フォロワーを確認するたびにそういう名前の人間が出てくるとブロックしたいわけだが、ブロックしてもアカウントが削除されないわけだが、通報することになるが、Twitchはそれほどサポートが良くないわけで、放置しないといけなくなる。これが地味にボディーブローとなってダメージが溜まる。

ではなぜ、俺が彼らの標的にされているのか。

あえて「いじめ」というが、日本のこういった「狭くも広くもないコミュニティー」におけるコミュニケーションというのは、教室文化を悪い意味で引きずっている。教室において、「いじめられっ子」と仲良かった子は、同時に「いじめてもよい対象」として認識され、そして「いじめ」の対象になる。したがって、「いじめられない」ためには、その「いじめ」の対象と関わらないという選択肢になる。そうすると、「いじめられっ子」は孤立され、追い込まれる。いじめられっ子は最悪の場合自殺するが、いじめている当人達は玩具が壊れた程度の罪悪感しか持たない。これはわかりやすい話で、最低でも9年間、最高でも12年間ほど「教室」に慣れた「子供たち」にとって、そういうコミュニケーションが基本になるということだ。

ちょっと抽象的な話題で申し訳ない。具体的なきっかけは何かというと、ふとした気のゆるみで、Gの配信者と関わりのある人間と交流してしまったことがきっかけである。つまり、Gの配信者コミュニティーにうっかり触れてしまったために、彼らにとって、自分はいじめてもいい人間だと認識され、その結果として、客観的に見ればしょうもないが、地味にダメージの来る荒らしをずっと受け続けることになる。要するに、「えんがちょ」とか「えせはら菌」といったような、感染する何かなのである。

さて、異常者に対して「その異常な行為をやめろ」と説教するのは異常者のやることである。それくらいのことは解る異常者なので、それはそれでいいかな、と思っている。課題としては、システムの中でどのようにこの異常者達を飼いならすか、というコミュニティーサービスを作っている人なら、一度は頭を痛ませた問題がある。そして、この手の攻撃にTwitchは非常に弱いシステムになっている、ということだ。

Twitchには、この手の荒らしに対して非常に手助けできるシステムがある。実は、Twitchでは、一つのメールアドレスによって複数のアカウントを所持することが出来る。もしかしたら有用な使い道があるのかもしれず、この手の機能が実装されているということは、これが施策として重要だからだろう、というのは理解できる。しかし、上記のような行為を続けられた場合、何も出来ないのである。もし、通報して対処してくれるほど、Twitchのサポートが厚ければいいが、一週間ほどたった今でさえ、何も音沙汰無しである。

さらに言うと、Twitchでは、フォロワーに対してブロックすることが出来ない。極端な話、そのような嫌がらせアカウントをフォロワーにずっと抱えたまま、一日を過ごさなければならない。

この手のことに関して、Twitchの思想は明確だと思われる。Twitchは性善説というか、「そんなにメンタルが弱いなら最初からゲーム配信なんかするな」という精神なのだろう。要は、そういう荒らしもいつかは終わる、あるいは荒らしもファンになってくれる、という発想か、あるいはこういう状況はそもそも例外的な問題であって、例外的であるならば、そもそも考える必要がないということだろう。しかし、フォロワーがせいぜい65人程度の人間が、しばらくの間こういう状況に陥るのは、もう単純に面倒くさいのである。女性配信者ならば、さらに嫌な気持ちになるのでは、としか思えない。

ゲーム配信で、褒められようとか称賛されようなんて気持ちでやる人間はナルシストで自分のことを客観視できていないわけで、基本舞台に上がるということは、ピエロになる覚悟を持っていなきゃいけない。ピエロになれないなら最初から舞台に上がるんじゃない。それはよくわかる。よくわかるのだが、割り切れないモヤモヤが正直あるのは否めない。

Twitchは現状として、健全なゲーム配信サービスとして、日本展開したいのかもしれないが、このような経験をしてしまうと、正直日本のゲーム配信コミュニティー向きではない、と俺は思ってしまう。少なくとも油断したらそうなるようなサービスなんてとてもじゃないが使えないし、サポートもあんまり意味なさそうだ。チャット上の発言を制限する機能は結構あるのだが。逆にニコニコ動画なんてもっとひどい、なんていう話もあるかもしれないが、最初から悪意全開のほうが、こちらも身構えることができるわけで、そういう意味でも、現状としてTwitchはあまりよろしくないと思う。

書き下してみたけど、大したことが書いているわけではなかったな。やられてもしょぼいし。なんか職場の黒ボールペンがトッポに毎回入れ替えられているような、そういう地味な嫌さだ。

とりあえず、一部のゲーム配信界隈では、こういう異常者が異常者に粘着するというのが流行っていて、異常者に粘着されて黒ボールペンくらいの気分を害するくらいならば、いつものように、ネタにして何かの足しにしようという感じである。

あ、ブサボ異常者のゲームプレイが見たい人はこのリンクから飛んでください。この文章を書いたことで、Twitchのフォロワーが増えれば、書いた甲斐があったというものです。それではチャオ!

底辺バーチャルYoutuber・芥川ドラゴソはなぜゆえに底辺なのか

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ブンブン! ハローユーチューブ。とにかく、右も左もバーチャルYoutuber時代であり、様々なバーチャルYoutuberがいる。これからも、続々とバーチャルYoutuberになる人が出てくる。

で、流石に流行モノだけあって、バーチャルYoutuberになれば注目されるかというと、そうではない。既にバーチャルYoutuberが、バーチャルYoutuberというだけで注目される時期はとっくの昔に過ぎている。その中で、飽きらかに地に沈んでいるバーチャルYoutuberも沢山存在している。

その中の一人に、「芥川ドラゴソ」がいる。

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芥川ドラゴソのYoutubeチャンネル。

芥川ドラゴソのTwitter。

その中、といったところで、俺が作ったバーチャルYoutuberなのだが、登録数で言うと150人程度という形で、結構低迷している。もちろん、多くのバーチャルYoutuberが、100人以下であるということを考えると、ある程度は善戦しているかもしれないが、キラリと光るバーチャルYoutuberは、大抵は200人を超えている状態であることを考えると、「芥川ドラゴソ」はあまり上手くいっていない実例にあたると思う。

あたりまえだが、この手の動画編集というのは、「薄ら寒いトーク」を聞くという地獄の過程を経るものであり、それに耐えて出てきたものだから、それなりの質は担保されているという自信過剰っぷりに支えられるものだ。とはいえ、客観的には低迷しているわけで、何故「芥川ドラゴソ」は底辺なのか、ということを語ることによって、今後のバーチャルYoutuberたちのダシにしてもらいたいと思う。

底辺の理由その1: 見栄えが良くない

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まず最初に言えることは、芥川ドラゴソは見栄えが良くないということである。少なくとも、Blenderの初歩を学ぶために、球体をペタペタとくっつけて作ったそのモデルは、正直なことを言えば、あまりにも見栄えが良くない。

基本的に動画である以上、ある程度の視覚情報的に心地の良いモデルが提供される必要があるが、芥川ドラゴソに関しては、それをクリアしているとは言い難いし、その上、非常に貧弱な画質によって提供されている。とすると、動画として「そもそもどうなの?」という問題があるように感じる。

動画のツカミとして、モデルのクォリティーがある程度担保されていたほうがよい。それは間違いないのだが、それに当てはまらないバーチャルYoutuber達も存在している。また、低モデルというのは、一つの笑いとして昇華される可能性だって秘めている。が、単純にモデルのクォリティーが低いのは、単純に手を抜いているだけである。

見栄えが良くない。これが底辺である理由の一つである。

底辺の理由その2: 寒い

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それなりに話の筋を考えて投稿しているのだが、ぶっちゃげていうと寒い。笑いには意図的なものと、そうでないものが存在しているわけだが、意図的なもので滑るとどうしようもない。他のバーチャルYoutuberはともかく、芥川ドラゴソはそんなに面白くない。

コメントとしては、「和む」という暖かいコメントもあるのだが、他の転載された動画を見ると、「ギャグセンスが無いのに、ギャグを押しているオッサン」というコメントもあり、なかなか辛辣な意見もある。実際、第4回のコメントを見ると「意味がわからない」というコメントが複数あり、話としてうわ滑りしていることがわかる。

どんなものであれ、無理に笑いを取ろうとするのは良くない。にも関わらず、笑いを取ろうとして滑ってしまう。これが底辺である理由の一つである。

底辺の理由その3: 中の人が滲み出てこない

バーチャルYoutuberというのが、ある程度キャラクターを何らかの技術によって同期させるという性質を取る以上、なんらかの形で演者が関わっている。いくつかの例外をのぞき、人気のあるバーチャルYoutuberというのは、何らかの意味で、「中の人」がある程度滲み出てきている。要するに、中の人の「その人らしさ」みたいな部分が出てきている。それが、親近感を生む要員になる。

芥川ドラゴソの場合、そのキャラクターの性質上、禁欲している側面もあって、中の人の「中の人らしさ」というのを過度に抑制している側面がある。そのため、中の人がふとしたときに見せる側面である「魅力」みたいなのが出てこずに、キャラクターとしての魅力にも繋らないという残念な結果になっているのだと思う。

バーチャルYoutuberは、バーチャルという架空の存在を通じて、よりキャラクターとしての「中の人の魅力」にアクセスしようとしている側面は必ずしも存在しているように感じる。それが存在していないとするならば、キャラクターに魅力を感じないのも仕方ないのだろうと思う。

キャラクターに魅力がない。これが底辺である理由の一つである。

底辺の理由その4: 特色がない

バーチャルYoutuberもキャラクターである以上、なんらかの特色であったり、特技が必要である。多くの人気が出ているバーチャルYoutuberの場合、技術であったり、あるいはイケてるボイスであったり、あるいはお絵かきであったり、といったような、自分が持てる知識だったり、技みたいなものを全面に出すようにしている。このような特色があってはじめて、「ああ、あの人の動画にいけば、こういうことをしてくれるんだろうな」みたいな想像が付くようになるのである。

しかし、芥川ドラゴソの場合、そういったものが存在しない。世界背景を作っているUnityだって、初歩的なところから勉強している最中であるし、Blenderもそれほどではない。では他のことで何か得意なことがあるかと言われると、そういうものもない。つまり、はっきりいって深く関心させるほどの何かがあるわけではない。

動画を見にくる人は、ある程度、面白さ、驚き、関心を求めるのであって、それが存在しないとするならば、動画を見る必要もないのである。

動画に対して特色がない。これが底辺である理由の一つである。

底辺の理由その5: バーチャル・コミュ障である

バーチャルYoutuberの傾向として、そのキャラクターを被って、Twitterで活動していたりすることが多く、他のバーチャルYoutuberとやりとりする傾向にある。このような絡みがあるからこそ、絡んでいるこのバーチャルYoutuberは一体なんなのか、と興味を持ったりする。

これに関しては、そもそも芥川ドラゴソの人が、あまり絡みに行くのも、凄く媚びているようで嫌だ、という自意識をこじらせた結果、からみに行くことが殆どないわけなんだけれども、この結果として、反応もできなければ、反応もされないという、悪い循環に陥いっている。

また、最近の流行りのネタに対してのっかっていくということもない。なんだか流行りのネタに走るのも恥かしい、という自意識があるためだ。つまり、そもそも根がネジ曲っているため、そういったこともできない。

バーチャルの世界でもコミュ障である。これが底辺である理由の一つである。

底辺の理由その6: そもそも労力をかけていない

労力をかければいいというものでもないが、有名になるバーチャルYoutuberというのは、元々の下地が違ったりする。

特に以前からその分野にかけて凄く頑張ってきた人間であったりする。そのため、自分みたいに、ポッと出て、UnityとAviUtlを少し勉強してみてできました、という動画が勝てるわけが無いのである。つまり、元々の蓄えてきた素地が違うのだ。それに、バーチャルYoutuber達も、苦難の時期があったことを考えるならば、ちょっと作っただけで、流行りに乗ろうとする甘い考えがそもそもおかしい、ということもできる。

そもそも労力をかけていない。これが底辺である理由の一つである。

まとめ

というわけで、芥川ドラゴソが底辺バーチャルYoutuberである理由を幾つか列挙してみた。元々、これは自分がUnityを勉強しようと思って、いい機会だから、何か続くモチベーションを作ろうとした結果である。なので、動画投稿はこれからも続けるとは思うけれども、芥川ドラゴソが日の目を出ることは多分ない。半年、もしかしたら一年くらい、ずっと動画投稿をし続ければ、可能性があるかもしれないが、多分そのと/きはそのときだと思う。

元々の性根が腐っている。これが底辺である理由の一つである。

芥川ドラゴソのYoutubeチャンネル。

芥川ドラゴソのTwitter。