人を騙すために本当のことを言う
内田樹の『他者と死者』(文春文庫, 2011) という本には、フロイトの『機知』に書かれていたというジョークが引用されている。
「どこへ行くのかね」
「レンブルクさ」
すると尋ねたユダヤ人は怒って言った。
「いったいどうして、あんたはほんとうはレンブルクに行くくせに、クラカウへ行くとひとに信じ込ませようとして、『レンブルクへ行く』なんて言うんだ!」
この話が面白いのは、「レンブルクへ行く」と答えたユダヤ人は極めて正直に答えているのにも関わらず、質問したユダヤ人は勝手に疑心暗鬼になり「人は嘘を付いている」と決めつけ、それによって、わざわざ遠回りして同じ言明に辿り着いているからだ。はっきりいって、こんな遠回りをするくらいならば、最初から真に受けたほうがいいに決まっているわけだが、騙されまいとする私たちは往々にして、このような遠回りをしてしまう。
内田樹が述べるように「人を騙す」という行為は極めて複雑なものである。何故ならば、人を騙すこと自体は、本書で言われている通り「本当のことを言うこと」でも可能であるからだ。騙されるかどうかは、実際のところ当人次第という側面は多分にある。
例えば、とあるアイドルがエイプリル中に「私は同性愛者です」ということが、少なくともアイドルビジネスにおいて「百合の関係を匂わせること」が、そういうセクシャルマイノリティのことを一顧に考慮しないファンを喜ばせることができるという社会的現実は、本人がもし「同性愛者」であったとしても、それがファンサービス(ネタ)であるという可能性を払いのけることができないという事態を呼び寄せる。
これを先ほどのジョークで形式的に述べるならば「貴方は同性愛者なのに、異性愛者であると人に信じ込ませようとして、『私は同性愛者です』なんて言うんだ!」というわけだ。アイドルや声優の「百合営業」に関する解説記事は、まさにこのような構造を取っている。
この事態に対して『機知』のジョークが教えてくれることは、非常に単純である。それは、ただ素直に「そうなんだ、貴方達は同性愛者なんですね」と頷き、そして「貴方達が本当に結婚できる日が来るといいですね」と穏やかに言えばいい、ということなのである。