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『ニーベルゲンの歌(上)』を読む

当時の感性を現代的な感性で読むのはおかしい、という話は理解できる。だけれども、無学無能者にとって一番の足がかりというのは、今の感性である。従って、『ニーベルゲンの歌』と呼ばれるドイツの叙事詩もそういう感じで適当に読んでいたりしていたが、かなりヘンな感じであることは間違いない。その辺りについては、『ニーベルゲンの歌(上)』だけを読んだ感想を、ここにメモしておく。

『ニーベルゲンの歌』の成立は1200年頃であり、その内容は過去の叙事詩である『エッダ』や『ヴォルスンガ・サガ』などの英雄譚をパッチワークして作られたものであることが指摘されている。従って、両者に出てくる英雄であったり、あるいは話の筋自体も似たような話が出てくるということが指摘されている。

例えば『エッダ』との共通点としては、ブリュンヒルデの話がある。不思議な炎に囲まれた城壁を乗り越えられる勇士とだけ結婚しよう、とするブリュンヒルデに対し、そのブリュンヒルデを妻に迎え入れたいグンデルは、ジークフリートが身代わりになって、その炎を乗り越える。これと似たような筋が『ニーベルゲンの歌』にも出てくる。彼女は三つの競技において、自分より勝る男としか結婚しないとする話である。

かぐや姫に限らず「妻の出す課題と、それを克服することによって妻を手に入れる」という話はあるにしても、恐らく当時の人々も何やら「ヘンな感じ」がしたに違いない。そのヘンな感じというのは、単純に考えて「ジークフリートが身代わりにグンデルになって、その結果ジークフリートが悲しい目にあうのは違うんじゃないのか?」ということである。考えてみれば、そんなグンデルのワガママに付き合う義理などさらさら無いわけだ。

そう考えてみると、『ニーベルゲンの歌』におけるブリュンヒルデとグンデルの関係というのは、いささか皮肉めいているというか、当時の人たちにおいても「やっぱワガママな王様という奴はダメ」という思いを抱いていたのではないか、という印象を受けざるを得ない。

構造的に見れば、ジークフリートとグンデル王の関係は非常に似通っているところがある。英雄ジークフリートもグンデル王も、噂に聞くひと知れぬ姫に恋をする。ただし、ジークフリートが恋い焦がれているクリエムヒルトも、この見知らぬ英雄に恋い焦がれていることが暗示されるのに対して、グンデル王の場合はもっと遠い異国の王女であり、少なくともこの異国の王女については、強い男なら誰でもいいのであって、決してグンデル王ではないとは言える。

昔話的に言うならば、ブリュンヒルデが「この世ならざる女」であることは暗示されている。例えば、『ヒメの民俗学』で宮田登氏は日本の詞書の中で「女性が想像を絶する大力を発揮している姿」に着目している。そこから、非日常や隠れた信仰を現しているということを指摘している。もちろん、欧米と日本の民俗学を全く同じに扱うことはできないが、とはいえ例えばブリュンヒルデを表現するときにたびたびでてくる「妖艶な姫」という言い方は、少なくともある程度まで「この世ならざる」という側面があるということができるだろう。

ジークフリートの、クリエムヒルトを追いかける超然とした態度に比べて、グンデル王の態度はいささか頼りがない。例えば、第七歌章はまさにグンデル王が、ブリュンヒルデの試練に立つシーンであるのだが、次のように述べている。

彼は心に思うよう、「これはなんとしたことか。

地獄の悪魔といえども、これには命を真っ当するわけにいくまい。

おれが生きてブルゴントの国へかえれたら、

もはや二度とこんな女に思いをかけることはなかろう。」

まさに王様の気まぐれという言うべきか、それとも思慮の浅さというべきか。

勇敢なダンクワルトも同様に弱音を吐いている。このような異様な状況に対しても、冷静に知恵を廻して打開するからこそ、英雄ジークフリートが引きたつといえばそうであり、実際に周囲が慌てれば慌てるほど、その対比として英雄ジークフリートが輝くという構造がある。実際に、彼はその英雄的な力を、姿を文字通り消せる隠れ蓑(明らかにニーベルゲンの指輪だ)を使い、二人羽織のように、恰もグンデル王が恰も力を発揮したように助力するわけだ。

とはいえ、ジークフリートとグンデルの対比がここで終わったわけではない。もちろん、ジークフリートはグンデルに口利きをしてもらって、クリエムヒルトと婚姻関係を結びたいという側面もあるわけだから、そのような状況が必要であった、ということは出来る。だが、グンデルとブリュンヒルデの関係の滑稽さに関しては、初夜を拒まれて泣きつく第十歌書にも引き継がれる。

現状において評判の悪いフェミニズム的な見方をすれば、夫の初夜を拒もうとする女をこらしめるという状況に端的にけしからんという言い方はできる。

このブリュンヒルデ、自立的な女性な印象があり、キャラクターの造形として面白さがある。少なくとも、グンデル王やジークフリートが勝手に婚姻を決めてしまう(もちろん、クリエムヒルトが半ば納得しているとしても)のには、本人の意思は介在しておらず、結婚に際しても「私はご命令のとおりに」というわけで、慎み深い女性であることを強調しているわけだが、それに対してブリュンヒルデは「あなたみたいな女性がなんでジークフリートみたいな身分の低い男と?」なんてお節介を焼くシーンは、余計なお世話であるとはいえ、クリエムヒルトみたいな素晴らしい女性が、そんなことで満足していていいの?という問いかけであるということもできる。

俺はこういう「貴方みたいな人がそんなことでいいの」と問う女性同士のやり取りに百合を感じるタイプなのだが、それは置いとこう。先もいっているように、グンデル王とブリュンヒルデの関係である。

一度クリエムヒルトの結婚に疑いを覚えて不機嫌になり(このあたりとかも百合っぽいのだが)、グンデル王の初夜を拒む。グンデル王はダメな男であり、事を無理矢理に運ぼうとするのだが、ズルして手に入れた女性であり、元々は釣り合わぬ。気がつけばボコボコにされて吊るされる始末なのだけれども、ここの描写は滑稽で笑ってしまう。

王は彼女の愛を戦いとるために、

彼女の着衣を掻き乱した。すると凛々しい乙女は、

腰にまとっていた頑丈な打紐の帯を解いて手にとった。

かくて彼女は王に対し、手ひどい苦痛をあたえたのである。

彼女は王の手も足もともに縛りあげ、彼を一本の釘にかけて

壁に吊したのである。それは彼が妃の眠りを妨げたので、

彼に対して愛を禁止したのであった。実際彼女の膂力のために、

王はすんでのことに命も失いそうになった。

そこで、主君のつもりでいた人が、嘆願し始めたのである。

「気高い姫よ、どうかわしの縛めを解いてくれ。

美しい王妃よ、わしは今後決しておん身を征服しようなどとは思わぬ。

もう二度とおん身のそばに休みもしないから」

普通に考えれば、この描写は滑稽であり、言い換えれば「不敬的」であるが、しかしこのような側面が、英雄叙事詩に出てくるのは興味深い。で、ミソジニー的に表現するなら、このような生意気な女性をとっちめなくてはいけないわけであり、その姫を叩くのはジークフリートである。

『ニーベルゲンの歌』はそういう意味では非常に複雑であり、従って何かと散漫としている印象は否めない。言ってしまえば、パッチワークする中において、様々な要素が入り込んでいて、そういうのがあるからこそ、国民的な叙事詩なのだろうということも出来る。そして、元々考えてみれば「見も会ったこともない姫」に恋い焦がれる人間というのは、やっぱり何か変であり、その変さについて、騎士物語が廃れると同時に出てくるのか、恐らくはセルバンテスの『ドン・キホーテ』ということになるだろう。