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自らの嘘に騙されて――ポスト・トゥルーズと説得力に関する覚書

岩波現代文庫には『説話の森』という書籍があり、その中に「見えなかった龍」という小論が掲載されている。さすが専門の研究として、沢山の文献にあたり、広く説話の歴史的な経緯に関しては勉強にはなるのだが、しかし解釈としては些か釈然としないところがある。

この「見えなかった龍」の小論は、『宇治拾遺物語』に掲載されている「猿沢池の龍」を巡る話についての考察である。あらすじとしては非常に簡単な話で「僧がおもしろ半分に自分の池に龍が昇るという嘘の立て札を設置したら、人々が龍を見るために集まってきた」という話であり、のちに芥川龍之介がこの話を元に『龍』という短編を書いたことで有名である。

この小論において、著者の小峯和明氏は、原本の『宇治拾遺物語』では、民衆が集まって期待したにも関わらず龍が昇らなかったことに対し、芥川龍之介がその結末として龍が昇るように改変したのを受けて、本書の中で「<もどき>を解さない近代の浅い読み方」と皮肉めいた締めくくりをしているが、しかしこの結論は何か不思議な印象を受ける。芥川龍之介の改変がどうの、ということではなく、この小峯和明氏が出した読みも、芥川龍之介が陥った「近代」という側面から離れられていないように思うからだ。

公平に述べておくならば、小峯和明氏が述べたかったことは「ひしめく」ものに表される「群衆のエネルギー」が主題となっている。大まかの部分には異論はないのだが、やはり「むしろ龍は群衆そのものにほかならない。猿沢池の渦こそが龍なのだ、と解すべきではないか」と述べたところは、芥川龍之介的な陥没にはまっているように思えてしまう。

最近の個人的な興味として、欧米のロマン主義文学を「幻視」として読むということを行っている。噛み砕いて言うならば「現実の風景」に「現実以上に生き生きとした光景を見ること」と言ってもいいだろう。幻視といえば、嘘・まやかし、日本の語彙としてはゆめうつつとなるだろうけれども、しかし見田宗介的(大澤真幸も含めて)に言うならば「夢より深い覚醒」という言い方ができる。

少なくとも、芥川龍之介の『龍』という短編は「民衆のひしめくエネルギー」が「龍そのものではないか」と思わず呟く小峰氏の解釈とそれほど変わりはしないように思える。ひしめく民衆が龍のようである、とすることと、実際に龍が見えたと改変するところに、それほど遠く距離があるわけではない――少なくとも創作の上においては。敢えて言うならば、ロマン主義的な「幻視」、すなわち民衆の熱に浮かされて「実際に見えてしまった」とするロマン主義的な描写への不満でしか無いだろう。

とはいえ、小峯氏の解読が間違っているということを言いたいわけではない。恐らく口が滑った部分ではあって、ポイントは「民衆のひしめくエネルギー」をどう捉えるかだろうと思う。

文章によれば、悪戯で人を騙したがる僧のことを「狂惑の法師」と呼んでいたらしい。その「狂惑の法師」嘘を暴かれて恥をかくといった笑い話はある(例えば、いちもつが無いと自称する僧が弄られて、陰部を露呈する話なんかそうだろう)。むしろ一般的に笑い話というのはこのようなものであると思うのが一般的な感覚であるように思う。

小峯氏が述べているように、この話の興味深いところは「民衆を騙す僧」という構造だけではなく「自らの嘘に騙される」という二重の構造になっているということが出来る。それはなぜかといえば、民衆が立て札に集まったからであり、ひしめくということはそれなりに理由があるからだろう、と僧が推測する構造になっている。そこから、初めて「ひしめく」というものの修辞的効果、言ってしまえば説得力にぶち当たったゼロポイントだからではないか、ということを考えてしまう。「嘘」というのは、本人が「つくりごと」という対象からの距離感があって初めて成り立つものであるが、そのような「つくりごと」が当人にとってもただらぬ、つくりごとではない説得力として現れる瞬間をリアリティを持って書き出しているからに他ならないように思う。

私が敬愛する社会学者の一人に大澤真幸氏がいて、その人が好きな説話の一つに、カザノヴァのエピソードがある。カザノヴァは、田舎の娘を騙すために魔法の円を描いた。すると、ちょうど天候が悪くなり、稲妻が鳴り響く。カザノヴァは、自分の描いた魔法の円に何の効力がないのを知っていたにも関わらず飛び込んだとする話である。この話から「アイロニカルな没入」、すなわち自分は嘘だと知っているのにも関わらず、恰も本当のように振る舞ってしまうとする行動のモデルを出したのであった。

元々「アイロニカルな没入」自体が説話的な構造になっている側面があり、眉にツバをつけないといけないが、しかしこのような構造自体は早くも十三世紀、「猿沢池の龍」に出てくるのが興味深い。そして、この話自体が、芥川龍之介やこの著書、そして私のように、何かしらの没入性を引き込むものとして現れているのが面白いと言える。

ちょっとだけ最近の話題に振れると、ここ最近はポスト・トゥルーズ時代と呼ばれているが、しかし個人的に気になるのは、どちらかといえば、「人々を騙すために嘘をつく」のではなく、「自分が信じることが出来ないかこそ、嘘をつく」のではないかということなのではないかと思う。

アイロニカルな没入は、まず本人に「アイロニー」がなければいけなかったが、むしろ今となっては、何をもってアイロニーとするのかが解らなくなっている。つまり「何かを信じる」ために嘘をつく。もし人々が炎上したりバズったりすれば、そこには何らかの「説得力」があるということになる。池に龍が昇るということを立て札を設えて人々が集まった時、人々を集まったことを持ってして、その立て札を信じることができるという構造になっているようにも感じるが、この辺りはこの日記に書くのには、少し長過ぎる話になる。