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日本のお笑いについて幾つか

 日記。

 ここ最近は「お笑い芸人」の人種差別ネタについてヤンヤと言われている。

 この手の素朴さというのは、俺なんかが指摘するまでもなく、日本社会には人種差別がないということを当たり前のように考えているからかこそ生まれるものであるということは、一応指摘はできる。とはいえ、そもそも「笑い」という問題については、単純に言ってしまうならば、例えば「名誉白人」という言葉が歴史的経緯を考慮に入れたとしても、かなり滑稽な概念であるわけで、その手の滑稽さの磁場に引きづられてしまっていたのではないか、という気持ちはかなり大きい。

 これらについては、例えば筒井康隆や、それこそもうひとり召喚するならば、ビートたけしの持っていた「毒」というものが一体何だったのか、あるいは深沢七郎が書いた『風流夢譚』はなんだったか、あるいは村崎百郎は何を騙していたのか、という一連の「不謹慎」というものがどういうものであるのか、ということにどのようにアプローチするのか、ということを、私たちは未だに持たずに来てしまったのではないか、と考えている。そのあたりに対する考えもなしに、闇雲に「自主規制」をし続けたということが、今響いているのかな、という気がする。

 例えば、スローターダイクの『シニカル理性批判』をひいてみよう。

 読んだところまでかいつまむと、元々イデオロギー批判というのは、いわばそれを行使する権力側のあり方を暴露するという方法であった。例えば、それを一番最初にやったのはディオゲネスであったとしている。ただ、このディオゲネスは人をバカにしただけではなく、自分もまた同時にバカにされるような振る舞いをした。例えば昼間からカンテラを持ってうろつくのは正気の沙汰ではないわけで、そういう批判する側にも愛嬌というか、ユーモアを持っていた、という話である。で、近代になるにつれて、実はこういう愛嬌が批判する側から失われていくというのが本書の趣旨で、ぼくはその中にふと漏された「聖なる不謹慎」という言葉が好きで、いつかそれを体現できればいいな、と思っている(しかし、ぼくは昔から「聖なる」という形容詞が大好きなのだ)。

 ぼくは日本のお笑いは好きだが、ただひとつだけ残念だなと思うのは、日本は「聖なる不謹慎」と呼ばれる類の笑いを持つことは出来なかったのではないか、と思うことがある。これはひっそりと書きつけておくべき、妄言以上の意味は持っていない。

 「聖なる」という修飾語自体が、ヨーロッパ的であるということは可能ではある。もちろん、ところどころで出てくることはあった。中国は魯迅を持つことが出来たし、日本は太宰治を持つことが出来たけれど、しかしそれは喜ばしいものではなく、いわば社会の傷口を防衛する役割になってしまった。笑いが必要なのは、本当は溺れている犬ではなく、溺れている犬を叩く側ではない筈だ。魯迅的に言うならばそういうものであった筈なのだ。

 わたしたちの社会は「差別と黒人が嫌いだ」という文には笑えるんだけど、しかし同時に「黒人」という言葉でも笑っている社会ではある。

 そこはちゃんと捉えておくべきだろう。