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ボードレールを久しぶりに読んで、背筋が伸びるような気持ちになる

 文章を読んでいると、何だか背筋が伸びるような気がする書き手というのが数人くらいいるのだが、その一人にボードレールがいる。

 例えば『パリの憂鬱』と称された散文詩集の中に、貧しき子供に、自分の手元にあるパンを少しご機嫌に渡したときの様子が書かれている。

だがその同じ瞬間、子供は、どこからとも知れず出て来たもうひとりの小さな蛮人に突きころばされたが、その子供が最初の子供にか安全に似ていることといったら、双児の見まがわぬばかりだった。二人はひとつになって地上を転げまわり、貴重な獲物を奪い合ったが、どうやらそのどちらも、半分を兄弟のために割こうという気はなかったのだ。第一の子供はいきり立って、第二の子供の髪をわしづかみにする。相手は耳に噛みつくと、何やら方言の堂々たる罵倒の言葉とともに、血のしたたりたる小さな肉片をぺっと吐き出した。菓子の正当な所有者は、簒奪者の眼にその小さな鉤爪を突きたてようとした。こちらはこちらで、片方の手にありたけの力をこめて相手の首を締めつけながら、もう一方の手で戦利品を自分のポケットにすべりこませようと努めるのだったのだが負けた方は、絶望のあまり奮起して身を立て直し、勝利者の胃のあたりに頭突きを食らわせて地上に転がした。この醜悪な取っ組み合いは、事実、子供にすぎない彼らの力から期待され得たのよりも長く続いたのだが、それをここに記述したとて何になろう?菓子は手から手へと移動し、一瞬ごとにポケットを変えるのだった。そりて、ついに二人とも精根尽き、息もたえだえになり、血にまみれ、これ以上は続けようもいなくて闘いを止めた時、本当を行って、争いの的になるものはもはや何もなかった。パン切れは姿を消してしまい、砂粒に混じり見分けのつかぬ屑となって散らばっていた。(p.49)

 ざっとまあ、こういう感じの文章が収められている。もちろん、こんな物悲しいものばかりではなく、勢いがあったり、感動させられるものも入っている。このような文章が何やら背中を伸ばしてくれるような、そのような気持ちを与えてくれるのは、結局のところ「望まれたことが望まれたようにはならない」という風景を残しているからなのだろうと思ったりする。どうやら自分は、そういった「意のままにならなさ」というところ、人は意のままに望むということに振り回されているという状況に感心があるわけで、その意味では、ボードレールが見たパリの風景というのは、自分にとっても学ぶところが多いのだろうなという気がする。