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イメージのモノ性

 日記。

 正直、特に書くことはないのだけれど、それで書かないとなると、単なる三日坊主に終わってしまうので、無理して頭の腰を叩いて、メモしておく。

 「何かを書く」というときにおいて、現実を書けば現実になるという素朴な感覚には、あまり馴染めない。

 例えば、最近読んで面白かった作家の中で、アイザック・バシェヴィス・シンガーという、イディッシュ語で書いているユダヤ人の作家がいるのだが、『パリ・レヴュー・インターヴュー 2』という本の中で、自分が書き始めたころのユダヤ人作家に対するいらだちを、次のように書いていた。

シンガー あとは――そうねえ、けっこうイディッシュ語の書き手はいるんだよ。有名どころも何人かいる。たとえばショーレム・アッシュ。デイヴィッド・ベルゲルソン。とても協力な散文を書くA・M・フックス、かれなんかほんとうに強力な作家さ、ただ、いつもおなじトピックなんだな。したい話はひとつっきりで、それを百万ものバリエーションで書いているというか。ひとつ言わせてもらうとね、イディッシュ後の作家はほんとうにユダヤ的なあれこれについて書かないんだから。啓蒙思想の影響をもろにうけているんだよ。現代のイディッシュ語の作家はね、ユダヤ性から抜けだせ、普遍性をもて、と叩き込まれて育ってきた。それで、普遍的になろうとがんばったら、その結果、すごく地方的になった。これは悲劇だ。(p.60)

 このような文章を見た時、似た態度を、例えばイタロ=カルヴィーノや、ガルシア=マルケスを感じることがある。彼らの出自はジャーナリストであるが、ジャーナリストという範疇を超えて、幻想文学というか、マジックリアリズム的な小説へと誘うことになる。

 老害的に雑然と思っていることといえば、今の日本の創作的な環境の悲劇というのは、リアルなことを書けばリアルであるという、その素朴な信念にほかならないと思うときがある。それは、時たま語られるアダルトビデオにあるような誇張された性行為こそが「正しい」と信じて実践してしまう男たちの悲劇のように、目の前にある現実的な表現が、作られたものではなく、理想的なものであると信じてしまう、その滑稽さにも似ているように思う。

 例えば、「ポリフォニー」の概念の提唱者であるバフチンは次のようなことを書いている。

わたしたちの生活のなかの実用的な言葉は、他者の言葉に満ちている。ある言葉には自分の声を完全に融合させ、それらが誰のものであるかを忘れており、また別のある言葉でもって自分の言葉を補強し、それらをわたしたちにとって権威あるものとみなしている。さらにはまた、それらに無縁であったり、敵対している自分自身の傾向を住みつかせたりもする。(『ドストエフスキーの創作の問題』, 平凡社ライブラリー, p.161)

 常に、その意見というのは何処からやってきたものか忘れてしまう側面がある。上の文章も、匿名的な意見の集積である。そのような起源の忘れ去られたイメージを、自分のイメージとしてではなく、あくまで何処かからやってきた客体として捉えることであり、イメージの法則と共にエンジニアリングすることに、自分は興味があるのだと思う。恐らく、柄谷行人が文学の中で興味持ったものは、そのように「イメージ/言葉」を、物理法則とは違った言語法則として、捉える目線であったように思う(『柄谷行人文学論集』にて)。