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半額の寿司を食う

 家の近くのスーパーで、半額の弁当を好んで買うという生活をしているのだけれども、スーパーでも波があり、昨日は結構な弁当が放出されており、それを買い込んで食べたりしていた。これが飽食社会なんだなーと思ったりしながら食べていたりしていた。

 自分が良く分からない習慣の一つとしてあるのは、「食べ物の写真をアップする」という行為だったりして、たまにその辺のことを考えるのだけれども、たぶんルーチンワークを行う日常生活で、それなりに変化があるものといえば、食べ物くらいなものであり、基本的に「自分に起こった良いことは自慢したがる」というものがあるのならば、「おいしいものを食べた」という経験は、それこそみんなに共有したいものの一つなんだろうな、みたいなことを考えたりしていた。

 そんなことを考えても、頭でっかちというか、世間ズレしているという吐露くらいにしかならないとは思うのだけれども、あんまり自分が、自分に起きた良い事というのを共有したいという思いはあんまり無い。とはいえ、「不幸は人に言えば半分になり、幸福は二倍になる」という、昔から良く言われている言葉からすれば、そっちのほうが正しいのだろうけども、やっぱり何処か「それは他人とは無関係なんだよなー」という思いにしかならないという気持ちがあったりもする。

 以前にFacebook上で、「食べ物の写真をアップロードするな、世の中には食べられない人もいるんだぞ」みたいなことを言っていた人がいて、何故かやたらと取り上げられたりしていて、自分としては「そういうことを言い出すような人もいるわなー」とは思うんだけど、世の中にはそういうのを信じられない人もいた。自分なりに、そういう発言というのが、なんか心に振れてしまう理由というのは、たぶん「食べ物の写真が一番無難だと思われているもの」の一部だったんだろうなーと思ったりもする。

 自分なんかもそうなんだけど、「他人が幸福であることによって自分が傷ついてしまう人間」というのは少なからずいる。それはたぶん、他人に対して、そうであったかもしれない自分というものを透かし合わせてしまうのだろうと思う。そして、それを手に入れられないということがどういうことなのか、と考えてしまう側面はあるんじゃないかと。ただ、そういうことを考えてしまうと、何も発言できなくなってしまうので、それは考えないほうが良い。いちいちパンを食べる前に、「このパンをアフリカに送ったほうが有意義なのではないか」を考えると、目の前のパンが食べにくくなってしまうのと同様に、だ。

 そういう意味では、「半額の寿司を食べる」ということを言うことにしても、たぶん、自分が発言することというのは、ふと見た人を、そこそこに傷つけてしまう可能性はあるんだよなーとか考えてしまう。それはたぶん、「嫌なら見るな」というような、責任転換するようなものではなく、こうやってブログを書いたり、何かを発言したりすることの帰結なのかなとも思う。一部の、気心の知れた間柄であるならば、その人達のみに話せばいいんだけど、それが不特定多数といったときに、そのような変数は拡大に増えていく(そして、それがなかなか見えてこないのが、今のネットというところでもあるのだろう)

 そんなことを考えながら半額の寿司を食べた。おいしかったです。