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「考えさせない」ための娯楽という価値

 例えば、何らかのエンターテイメントに対して、「考えさせられる」という褒め言葉が使われることがある。それに対して、「何も頭を使わないもの」に関しては、逆に、やはり少し劣ったエンターテイメントだと見做されることがある。もちろん、娯楽に対する評価軸が、これだけであるとは思わない。だけれども、「考えないこと」の需要について、「考えさせられる」という需要よりも、真面目に考えられることはあんまりないように思われる。

 たぶん、この問題があまり考えられないのは、「考えさせない」という娯楽が、一部の「考えない層」向けという側面があるという風に考えられるからで、それはそれで間違いはないのかもしれないけど、それはそれで半分くらいしか説明していないんじゃないか。

 この話を考える前に、少し遠回りをする。キヨスクに官能小説が売ってある理由とはなにかみたいな話を知人から聞いたことがある。それは当然「それなりに利益が出る」からなんだけど、でもじゃあ誰が買っているのかという問題になる。キヨスクの官能小説を愛読している一人に、医師がいたという。どういうタイミングで読むかといえば、例えば新幹線で別の病院へいき、重要な手術を行い、その帰り道に読んだりするという。なぜ、その医師が官能小説を読むかといえば、「現実とは関係ないことであるし、またそれほど頭を使わないから」だという話があった(らしいが、もしかしたら記憶違いかもしれない)。

 この話でやはり思うのは、プレッシャーやストレスから開放されるための娯楽というのはある。実際に、「仕事中に散々頭を使っていたのに、なぜプライベートまで頭を使わなければならないのか」という人はそれなりにいるんじゃないんだろうか。だからこそ、単純なゲームのほうが望ましいということはありうる。そのゲームをやっているときだけは、何も考えなくていいと思うのは、それはそれで価値だ。

 例えば、筒井康隆の短篇小説に『にぎやかな未来』というのがあって、この短篇が自分としては気に入っているので、よく引用する。これは広告を終始聞かなくてはいけなくなった世界において、もっとも価値のあるCDというのは「何も入っていない」CDだった、という話である(つまり、静寂!)。そういう風に考えるなら、考えることが多すぎる現代では、「考えないこと」というのは、同様に価値をもってしまう瞬間もある。