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病気と嗜癖、解決

 日記。

 ちょっとだけ気がついたことに、意識的には自分の親はマトモで、こんな息子に育ってゴメンナサイ、という気持ちがあったのだが、精神疾患に関する医者のコラムを読んでいると、こういった「パーソナリティ障害」が顕在化する理由の一つに、親との関係が上手く築けなかったからだというのがあって、自分の過去の行いを振り返るうちに、「あれ、うちの親、かなりおかしかったのでは?」と今にして気がつくことになる。基本的に親との思い出が希薄であり、夫婦喧嘩しかしていなかった記憶くらいしかないのが既にヤバい筈なのだが、この歳になって気がつくことはなかったし、「過去の振る舞い」から逆算すれば、親が悪いという話になるわけで、ぼんやりとした納得感しか覚えなかった。

 今後のことは後で考えることにして、事実関係だけメモしておくと、あくまで浅い範囲だけの記述であるが、自己愛性パーソナリティ系の人物は、いわゆる身近な人を傷つけやすいという側面があると言われている。要は「恩を仇で返す」というパターンのもので、過去の自分の考えを振り返るにこの感覚は非常に高い。とするならば、自分の行動というのは、余り精神科医に指摘されることはなかったが(俺が聞くことが無かったからかもしれないが)「自己愛性パーソナルティ」ということになるのかもしれない。

 素人が素人で判断してしまうことの危険性はある。

 俺は発達障害であるのだが、周囲の界隈を見るならば、「発達障害に異様にこだわってしまう」発達障害という、再帰的な発達障害(面倒くさいな)がいることがわかる。「病識」というのは、自分からにしろ、他人からにしろ「嗜癖」してしまうなにかに違いない。なぜ、それに嗜癖してしまうかというと、何ら頭の現象について「それで解決してしまう」という錯覚が生まれてしまうからだ。ジジェクがなぜ「反ユダヤ人」という差別が生まれるか、といえば「ユダヤ人がやった」ということにしてしまえば、何やらキリが晴れたような納得感が生まれるからだという。

 ではその手の納得感の何が不味いかというと、それで何か解決しているように思えるからだろう。

 フォイエルバッハからマルクスが行った転倒、「哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。しかし問題なのは世界を変えることなのである」という主題は、それを採用することによって何が解決するのか、という問いかけになる。例えば、自分が「自己愛性パーソナリティ」であると理解した場合に、解決する問題は、恐らく「もう少し他人に気を配って、共感を持つようにしよう」とかになるように思う。発達障害ならば「自分は何やらモノを忘れっぽいから、忘れないように工夫しよう」といった解決に結びつくのだが、それ以上の理解を持ってしても、あまり役に立たないだろう、とは思う。

 変な話だが、自分を「発達障害」であると理解したときに、周囲の人間が「発達障害」であるのにも関わらず上手くやれているところを見れば、その複雑さが理解できる。病気化したところで、そこからはみ出る問題系というのが発生する。それは結局のところ、「魂」とか「人格」とかいう、わけのわからないものに集約されるように思う。誰かが書いているが、「人格というのは、自分のせいで生まれたものではないのに、自分が責任を持たなければならない、厄介なもの」と書いていたが、そういうものだろう。その厄介さは必然性みたいなところで、それは例えば「発達障害」概念を掘り起こしたところで、あるいは「脳機能」を掘り起こしたところで、理解できるが「解決」はできない、というところがある。

 何はともあれ、もう少し人に共感する癖をつけよう、と思った次第であった。

ウェブ小説を書くことの恥ずかしさについて

日記。

最近は小説を書いている。

novelup.plus

kakuyomu.jp

 前者は、非転生系のギャグファンタジーだけれども、歴史考証があまりちゃんとしていないので、そのあたりに違和感があるかもしれない。    後者は、一発系の不謹慎ネタ。ただ不謹慎なだけなので、真面目な人は嫌悪感を催すとは思う。

 しかし小説を書くということは、何処か罪悪感というか、背徳感を覚える側面がある。それは本屋や図書館に行った時に、棚に並ぶ本を読めないことについて、何やら津波に押しつぶされるような感覚を覚えるのに、それは近い。

 だいたい一話更新する毎に、三千字から四千字ほど使うのだが、千文字打ち込むにつき一時間程度の時間を使う。従って、単純計算すれば、一日三時間から四時間程度の時間を使うということになる。しかし、これら三時間から四時間ほどの時間を使った場合、少なくとも一時間五十ページほどノロノロと読んだと考えて、百五十ページの本が読めた計算になる。

 「書く」ということは「読む」ということとトレードオフである。そして、現状として「書く」ということは「読む」ということの義務感を増幅させる筈だ。少なくとも本屋や図書館で繰り広げられる本の山というのは、何らかの形で「読ませたい」という希望において書かれたものであることは間違いがない。そのような声に傾けていると、「なぜこれほどまでに『読まれたい』ものがあるのに、書かなければならないのか?」と自問してしまう。

 この手の問いは「死にたいのに生きなければならないのか」という問いに似ていて、別に私が生きている必然性が無いのと同様、「書く」ということにたいして必然性が伴っているわけではないのに似ている。もちろん、とりあえずのところは、そのように溜息をつく人々に「生きて欲しい」と慰めることはできるし、「書き続けて欲しい」ということはできる。だが、それは目の前に持病でお腹を痛めている人がいれば、救急車を呼んでやるのが人道的である、というくらいの話だということだろうと思う。救急車に運ばれる病人のことを何時までも考えないのと同様ではある。

 しかし、恐らく多くの人たちは次のように考える筈なのである。「そもそも、読むことに義務はない」。これはその通りである。本、特に小説とは、それを読まずに済ますことができるという利点がある。日本人の多くはダンテの『新曲』を一ページも開いたことはないし、フローベールの『ボヴァリー夫人』を一ページも開いたことはない。それは健全な姿である。だからこそ「読んでください」といいながら、頭を下げて、自らの作品を売り込まなくてはならない。

 何よりもまず、そこに求められているのは図々しさだろうと思う。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や、あるいは司馬遼太郎、あるいはフィリップ・K・ディックでもいいだろう。そのように並べられる本棚の中に押し入り、自分の本が刺さることを期待しているからだ。それが図々しくなくて何だろう、と思うことはある。そして、それらの作品のかわりに、時間を使って読んでください、と言わなければならない。それらがまだ読まれるのを待っているのに、である。

 結論は出ない。それは「なぜ生きるのか」という問いが、基本的に結論が出ないように、「なぜ書くのか」という問いにも結論はでない。本音を言うならば、自分の書くのを止めて、大量に読んであげたいという気持ちはあるのだが、とりあえず書こうと思ったので、書き続けているのが現状ではあって、とはいえそういう風に考えれば、それなりに向上心を持って励む事が出来るというだけの話だろうとは思う。

 せいぜい「なぜ書くか」に対する答えというのは、「自分が書いていて楽しいから」だし「読み返して楽しいから」という結論だろう。それは子どもたちが砂場で遊ぶくらいの無邪気さが必要だし、その無邪気さを素朴に発揮できないくらいには老いてしまった。それ以上の、それ以下の答えは無い気はする。周囲を見渡せば、活字の荒野が広がっている。それは単に情報社会の作り出す幻影なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。ただそのような幻影が見えていることは確かで、そのような幻影を無視して眼の前の砂場で戯れているのも事実である、ということだけが残るのであった。

「愚かさの弁護」について――エラスムスの『痴愚神礼賛』を読む

 日記。特に結論は無い。

 蓮實重彦という、フローベルを研究するフランス文学者が書いているところによると、「凡庸」の対義語は「才能」や「天才」なのではなく「愚鈍」である、ということらしい。このようにして蓮實重彦の名を借りて「愚鈍」について語ること自体が、既にクリシェ(紋切型)なわけで、そのように語ることに新鮮味はない。だが、そのような紋切を考えることにも意味はある。

 というのも、ここ最近、ある本を読みながら、この言葉について考えるようになったのである。

 それは、エラスムスの『痴愚神礼賛』(中公文庫)という本である。並行してラブレーの『カルガンチュア物語』も読んでいるのだが、それに比べればエラスムスの「風刺」は、元来下品な心情のものであるのにも関わらず、それを良識的な態度で望むという、いわば「生真面目な人」の本であるように感じて仕方ない側面がある。

 例えば、次の文章を読んでみよう。

人生に味わいを添えている、このうぬぼれというものを取り去ってご覧なさり。するとたちまちにして、弁論家は弁舌をふるう熱が冷めてしまい、音楽家が曲を奏でても飽きられてしまい、役者が役を演じても野次り倒され、詩人は詩作品ともども嘲笑され、画家はその作品の値を落とし、医者は薬の山に囲まれて飢え死にすることであしょう。とどのつまりは、ニレウスと見えた者がテルシテスに、パオンがネルトスに、ミネルヴァが豚に、能弁家かと思われた人物が、ことばもおぼつかない幼児に、都雅の人士が仕出しの田舎っぺにそう映ってしまうことになるのです。他人に褒められたいと思うなら、まずは自分自身にへつらって悦に入り、ちょっとばかり自分をおだてあげることこそが、大いに必要とされるのです。(p.59)

 このような一節を読めば、例えばこのように文章を書くという行為が如何に傲慢であるか、という気持ちに思いを馳せたりする。

 何故なら、自分が書くような意見というのは、常に何処で書かれている可能性があるわけでだし、誰かが書いているはずだし、わざわざ自分で書く必要がない、ということになる。ある意味において、書くということは、自分の「起源」に対して忘却しているからこそ、自分の意見として提出しないといけないということになるだろうし、そしてその忘却された「起源」に対して自分のほうが価値があるという傲慢さに結びつく。このような「痴愚」を前提としなければ、文章なんてとてもじゃなければ書けないし、うすうす人はそれを感じているからこそ、この一節を笑うように感じる。

 だが、エラスムスの『痴愚神礼賛』が不思議なのは、あらゆる痴愚を笑うのではなく、痴愚こそが神に与えられた恩寵であるという構造になっている。それは、人が持つ「愚かさ」に対する両義的な気持ちをそのまま現しているとも言える。例えば、「リア充」と呼ばれる、日々を楽しく生きている人たちが如何に薄っぺらいか、というのはよく語られるのであるが、同時にその人たちの「薄っぺらさ」こそが人生の本質なのではないか、という思いを抱かざるを得ないわけだ。

 とはいえ、人は凡庸さに耐えることが出来ない。多くの人々が立場的に成功しているにも関わらず、その成功に飽き足らずに、自分の知らない分野でろくでもない意見を述べたりすることがある。人はこれを「愚かさ」と呼ぶのだが、しかし自分が考えるに、これはむしろ彼自身が「自らの凡庸さ」に耐えきれなくなって押しつぶされたからに過ぎないとしか思えないのである。そしてその「凡庸さ」に耐えられないという事実そのものが、その人の「凡庸さ」を明らかにしてしまう。

 例えば、「文学」にしろ「政治」にしろ、自らの頭脳で鋭い意見をズバッと言い、それで問題が解決するというそのイメージそのものが「賢さのイメージ」である。裸一貫で何かを成し遂げるというイメージを無自覚に、制度的になぞるという行為こそが「凡庸さ」である。今となっては、エラスムス自身に、上に書かれた「凡庸さ」が宿っている側面は否めない。従って、彼の書いている「内容」は、実は驚くほど凡庸で、面白い部分はあるのにしても、良識的なそれにとどまっているように思える。

 しかし、本書の「形式」を考えた場合、明らかに「愚か」であると言っても良い。あるいは、自分が良く使う「不穏さ」と言っても良い。なぜこの文章が不穏であるかというのならば、『マグベス』の魔女が言う「きれいはきたない」ではないのだが、「おろかはかしこい」と言う側面に転じているからだ。変な話だが、「あなたたちは愚かです」と言いながら、「人生の真理とは愚かさである」の萌芽することになる。実際、本を読めば、「人生が愉快であるのは私のおかげである」と痴愚神が伸べる箇所が幾つも見つかる。

 このような「形式」に従い、エラスムスは「文学」と「政治」に二つの「愚かな人物」を呼ぶことになった。それがルターと、ラブレーである。ルターの伝記を読むと、彼が自らのやることが全くわからない(それは彼が教会の制度というものを全く理解できなかったことにも繋がる)が故の愚かさがみなぎってはいるし、またラブレーラブレーで、思いっきり自分の愚かな部分を剥き出しにして、下品で醜悪、そして抱腹絶倒で愉快な小説である『ガルガンチュア物語』を書くことになる。この二人による愚人であり偉人が、その後の世界を大きく動かしたということが出来る。

 最近になって思うのは、このような「愚かさ」に対する信頼の傷つきようである。私たちの社会全体が、多くの人々が愚かであり、愚かであるが故に、世界が悪い方向へ進んでいるという思い込みによって突き動かされている。しかし実際のところは、「愚か」であるというよりかは、何処かで見たような、倦怠を誘う「凡庸さ」こそに終始呆れているだけのようにも思える。私たちが自信を持って選び、そして賢明な判断だと信じていることの「凡庸さ」であり、そしてその「凡庸さ」に対して、余りにも無自覚であるということに対する苛立ちなのではないか。

 とはいえ、たまに見かけるように「知らないことを知っていることこそが賢い」という「無知の知」のような「愚かさに対する居直り」も、それ自体「凡庸」ではある。

 少なくとも、ソクラテス自身は、自分が無知であることに耐えられなかった筈であるからだ。

Twitchでゲーム配信をする異常者が、異常者に粘着されるというこの世の地獄よ

f:id:nisemono_san:20190214172339p:plain 「異常者」という奴のは、ちょっとコミュニティーを変えれば違う自分を見せられると勘違いするが、これが甘い考えであって、異常者というのは何処へ行っても悪目立ちするから異常者なのだ。だから、異常者がコミュニティーを渡り歩くことを「焼畑農業」といって揶揄されたりする。

自分の場合はどうか。自分の場合は、ゲーム実況という場で、そういう悪目立ちをすることになる。

ゲーム実況という営みは、もう日本の若者文化に充分根差した存在になっている。最近、コンビニの店内ラジオなんかを聞いていると、ゲーム実況主がMCを担当してびっくりしたものだし、自分がヴァーチャルユーチューバーを調べたときは、今後の活動の計画が、だいたいゲーム実況であった。今の若い人にとって、何かインターネットで活動したい、有名になりたいと考えた場合、ゲーム実況という選択肢が出てくるようになった。

俺がゲーム実況をやりはじめたきっかけは、とある人がやっていたから、という単純なものである。その人がやっていたから、じゃあ俺もやってみようという軽いものであった。その俺がゲームを配信を始めるきっかけになった人は配信中の暴言のせいか、TwitchからBANされた。Twitchは海外サービスのせいもあって、人種差別的な発言には非常に厳しいようだ。

俺はその時までゲーム実況なんて殆ど見たことはなかった。たまに炎上して過去の人となった配信者の動画をアーカイブで見て「面白いな、過去にこんな異常者もいたんだな」と、自分の異常性を棚に上げて面白がるくらいだった。

日本のインターネットコミュニティーにおいて特徴的なことの一つとして、その集まりにおける作法みたいなものが存在している、ということだ。有名どころだと淫夢がそれにあたる。彼らは、自分たちの「内輪のコミュニケーション」でお互いが仲間であることを確認する。場合によっては、それが「一般的なコミュニケーション」のように振る舞い、迷惑をかけることを厭わない。自分が察するに、その迷惑をかけるという行為は身内に向けられたメッセージであって、外に向けたメッセージではないからだ。だから、彼らにとって、「迷惑をかけている人間」というのは、はなから存在していない。身内で「ああ面白かった」と言えればいいのである。

Twitchでも、このような状態が、とあるゲームの配信界隈で生まれてしまった。そのきっかけとなった、ゲームの配信者の名前を仮にGとする。

Gがやっていたゲームは、簡単に言ってしまうと、味方と協力しあって勝利に導くゲームであった。ところが、Gは味方に対する暴言であったり、あるいは炊く(=怒る)といった行為で注目されていた。長時間プレイしていたことも、注目される要因の一つだろう。これ自体はよくある話なのだが、ポイントは一つだけで、Gはこのゲームコミュニティーにおいて、「プチミーム」的な存在になってしまったということである。ヘンな話だが、村に伝わる祟り神くらいには、皆知っているという存在ととらえたらいいだろうか。外にいったら誰も知らない、というところが村だけの風習っぽさをさらに際立たせる。実際は、自殺宣言騒動とか、いろいろあったが、それは置いておくとしよう。

まずそれらの行動に、他人の有名な配信者のところで、適当な宣伝文句を付けて、そのチャンネルを宣伝する。例えば、自分の場合であるならば、「70歳のおじいちゃんがゲームをプレイする配信」という文句で宣伝されたし、また「女子高生がこの配信で脱いでます」という文句で宣伝されたこともある。この宣伝の意図は、調べた限りではよくわからない。単純に祭り上げの可能性がある。ただ、こちらはスルーしていればいいし、場合にはフォロワーにもなるので、特に問題はない。

もう一つの問題は、その人に似た名前のIDを作るということである。このブログの画像にも張り付けたように、自分の名前でも5つほどの名前がついている。これがあまりよくはなくて、どうしてかというと、名前というのは、どうしてもその本人の印象を決定づけてしまう。自分の名前で、変な活動をされた場合、その活動の印象が付いてしまうということが起きる。例えば、「お前、俺のところで悪口言ってただろ」と絡まれるのは、正直お互いに良くはないし、身の覚えのないことを色々とやられるのはたまったものではない。もっと酷いのになると、例えば「えせはらは障碍者」みたいな名前を付けてくる悪質な人間もいる。フォロワーを確認するたびにそういう名前の人間が出てくるとブロックしたいわけだが、ブロックしてもアカウントが削除されないわけだが、通報することになるが、Twitchはそれほどサポートが良くないわけで、放置しないといけなくなる。これが地味にボディーブローとなってダメージが溜まる。

ではなぜ、俺が彼らの標的にされているのか。

あえて「いじめ」というが、日本のこういった「狭くも広くもないコミュニティー」におけるコミュニケーションというのは、教室文化を悪い意味で引きずっている。教室において、「いじめられっ子」と仲良かった子は、同時に「いじめてもよい対象」として認識され、そして「いじめ」の対象になる。したがって、「いじめられない」ためには、その「いじめ」の対象と関わらないという選択肢になる。そうすると、「いじめられっ子」は孤立され、追い込まれる。いじめられっ子は最悪の場合自殺するが、いじめている当人達は玩具が壊れた程度の罪悪感しか持たない。これはわかりやすい話で、最低でも9年間、最高でも12年間ほど「教室」に慣れた「子供たち」にとって、そういうコミュニケーションが基本になるということだ。

ちょっと抽象的な話題で申し訳ない。具体的なきっかけは何かというと、ふとした気のゆるみで、Gの配信者と関わりのある人間と交流してしまったことがきっかけである。つまり、Gの配信者コミュニティーにうっかり触れてしまったために、彼らにとって、自分はいじめてもいい人間だと認識され、その結果として、客観的に見ればしょうもないが、地味にダメージの来る荒らしをずっと受け続けることになる。要するに、「えんがちょ」とか「えせはら菌」といったような、感染する何かなのである。

さて、異常者に対して「その異常な行為をやめろ」と説教するのは異常者のやることである。それくらいのことは解る異常者なので、それはそれでいいかな、と思っている。課題としては、システムの中でどのようにこの異常者達を飼いならすか、というコミュニティーサービスを作っている人なら、一度は頭を痛ませた問題がある。そして、この手の攻撃にTwitchは非常に弱いシステムになっている、ということだ。

Twitchには、この手の荒らしに対して非常に手助けできるシステムがある。実は、Twitchでは、一つのメールアドレスによって複数のアカウントを所持することが出来る。もしかしたら有用な使い道があるのかもしれず、この手の機能が実装されているということは、これが施策として重要だからだろう、というのは理解できる。しかし、上記のような行為を続けられた場合、何も出来ないのである。もし、通報して対処してくれるほど、Twitchのサポートが厚ければいいが、一週間ほどたった今でさえ、何も音沙汰無しである。

さらに言うと、Twitchでは、フォロワーに対してブロックすることが出来ない。極端な話、そのような嫌がらせアカウントをフォロワーにずっと抱えたまま、一日を過ごさなければならない。

この手のことに関して、Twitchの思想は明確だと思われる。Twitchは性善説というか、「そんなにメンタルが弱いなら最初からゲーム配信なんかするな」という精神なのだろう。要は、そういう荒らしもいつかは終わる、あるいは荒らしもファンになってくれる、という発想か、あるいはこういう状況はそもそも例外的な問題であって、例外的であるならば、そもそも考える必要がないということだろう。しかし、フォロワーがせいぜい65人程度の人間が、しばらくの間こういう状況に陥るのは、もう単純に面倒くさいのである。女性配信者ならば、さらに嫌な気持ちになるのでは、としか思えない。

ゲーム配信で、褒められようとか称賛されようなんて気持ちでやる人間はナルシストで自分のことを客観視できていないわけで、基本舞台に上がるということは、ピエロになる覚悟を持っていなきゃいけない。ピエロになれないなら最初から舞台に上がるんじゃない。それはよくわかる。よくわかるのだが、割り切れないモヤモヤが正直あるのは否めない。

Twitchは現状として、健全なゲーム配信サービスとして、日本展開したいのかもしれないが、このような経験をしてしまうと、正直日本のゲーム配信コミュニティー向きではない、と俺は思ってしまう。少なくとも油断したらそうなるようなサービスなんてとてもじゃないが使えないし、サポートもあんまり意味なさそうだ。チャット上の発言を制限する機能は結構あるのだが。逆にニコニコ動画なんてもっとひどい、なんていう話もあるかもしれないが、最初から悪意全開のほうが、こちらも身構えることができるわけで、そういう意味でも、現状としてTwitchはあまりよろしくないと思う。

書き下してみたけど、大したことが書いているわけではなかったな。やられてもしょぼいし。なんか職場の黒ボールペンがトッポに毎回入れ替えられているような、そういう地味な嫌さだ。

とりあえず、一部のゲーム配信界隈では、こういう異常者が異常者に粘着するというのが流行っていて、異常者に粘着されて黒ボールペンくらいの気分を害するくらいならば、いつものように、ネタにして何かの足しにしようという感じである。

あ、ブサボ異常者のゲームプレイが見たい人はこのリンクから飛んでください。この文章を書いたことで、Twitchのフォロワーが増えれば、書いた甲斐があったというものです。それではチャオ!