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お得に見えてお得に見えていないもの

 今日は新しくイヤホンを買った。自分は余り人が着用しているとか、しないとかには無頓着なので、普段は中古で買っているのだけれども、今日は珍しく新品のものを買った。唐突に買ったものとしては、意外に悪くはなく、日常的に使うだろう。とはいえ、自分の耳が些細な音質を見分けるくらいの耳があるかは不明ではあるんだけれども。

 久しぶりに、それなりのヘッドフォンを手に入れたので、中身を見たりしていたのだけれども、いろいろと付随品がある。付け替え用のパッドがあるのは、耳の大きさがそれぞれ違うのだからいいとして、イヤホンを収納するための袋であったり、ケーブルを巻くためのものであったりとか、ちょっと付属品があったりした。

 で、自分はイヤホンを収納する袋というのは、あんまり使わないタイプだったりする。モノを扱うのが雑だったりするので、ついついポケットにイヤホンを丸めて入れてしまう。なもんだから、袋に入れて使うということがあまりない。で、そういうのがあまりないものだから、ついつい「イヤホンを収納する袋を付けるくらいならば、値下げしろ」と思ってしまう。で、この辺で、自分の感情に「アレ、これおかしいなあ」と思ってしまったのだった。

 人がお得だなあ、と感じるのは、「思ったよりも安く買えた」とか「思ったよりもモノが良かった」というパターンだと思うのだけれど、普通、余計なモノがあるならば「ラッキー」と思うはずだし、そっちを選んだりすることもある。それは単なる貧乏性だったりするんだけど、今回の場合はそうは思わないということだ。

 自分はイヤホン工場でイヤホンを詰めるモノの検討をしたことがないから、あまりわからないけど、意外に出荷しなかったり、余ったりする、といったような「値段に直接関係はないかもしれない」付属品があるとする。もし新しいモデルが出来たとして、もし近くに「値段には反映されない付属品」があったとするなら、特に問題ないなら、それを一緒に付けると思う。なぜなら、そっちのほうが「お得に感じる」から。

 でも、消費者に直して考えてみると(というより、自分のことだけど)、付いている商品=値段という風に錯覚しがちでもあるとは思う。つまり、一つの付属品が減れば、その商品も安くなるんじゃないのか、と考えてしまうんじゃないだろうか。だとすると、実は「よかれ」と思ってやったことというのは、実は「そんな余計なことをするんだったら安くしろよ」という話になっちゃうんじゃないだろうか。

 よく、「メーカーが『消費者はこういうのを欲しがっているんじゃないか』と想像すること」と、「実際に消費者が欲しがっているもの」ということのズレは話されたりするんだけれども、こういうのも要因としてあるんじゃないんだろうか。「何かたくさん付けたりすることがリッチで良い」というのは、ある領域では優位性を失って、「いや、そんなにたくさんモノはいらないから。だからそのかわり安くして」みたいな、良くも悪くも現実的な欲望というのはあるんじゃないんだろうか。

 いや、無闇に値下げするのもよくないけれど、そんなことを思いながら、今日の日記は、新品のイヤホンでノリノリになりながら書いたのでした。

半額の寿司を食う

 家の近くのスーパーで、半額の弁当を好んで買うという生活をしているのだけれども、スーパーでも波があり、昨日は結構な弁当が放出されており、それを買い込んで食べたりしていた。これが飽食社会なんだなーと思ったりしながら食べていたりしていた。

 自分が良く分からない習慣の一つとしてあるのは、「食べ物の写真をアップする」という行為だったりして、たまにその辺のことを考えるのだけれども、たぶんルーチンワークを行う日常生活で、それなりに変化があるものといえば、食べ物くらいなものであり、基本的に「自分に起こった良いことは自慢したがる」というものがあるのならば、「おいしいものを食べた」という経験は、それこそみんなに共有したいものの一つなんだろうな、みたいなことを考えたりしていた。

 そんなことを考えても、頭でっかちというか、世間ズレしているという吐露くらいにしかならないとは思うのだけれども、あんまり自分が、自分に起きた良い事というのを共有したいという思いはあんまり無い。とはいえ、「不幸は人に言えば半分になり、幸福は二倍になる」という、昔から良く言われている言葉からすれば、そっちのほうが正しいのだろうけども、やっぱり何処か「それは他人とは無関係なんだよなー」という思いにしかならないという気持ちがあったりもする。

 以前にFacebook上で、「食べ物の写真をアップロードするな、世の中には食べられない人もいるんだぞ」みたいなことを言っていた人がいて、何故かやたらと取り上げられたりしていて、自分としては「そういうことを言い出すような人もいるわなー」とは思うんだけど、世の中にはそういうのを信じられない人もいた。自分なりに、そういう発言というのが、なんか心に振れてしまう理由というのは、たぶん「食べ物の写真が一番無難だと思われているもの」の一部だったんだろうなーと思ったりもする。

 自分なんかもそうなんだけど、「他人が幸福であることによって自分が傷ついてしまう人間」というのは少なからずいる。それはたぶん、他人に対して、そうであったかもしれない自分というものを透かし合わせてしまうのだろうと思う。そして、それを手に入れられないということがどういうことなのか、と考えてしまう側面はあるんじゃないかと。ただ、そういうことを考えてしまうと、何も発言できなくなってしまうので、それは考えないほうが良い。いちいちパンを食べる前に、「このパンをアフリカに送ったほうが有意義なのではないか」を考えると、目の前のパンが食べにくくなってしまうのと同様に、だ。

 そういう意味では、「半額の寿司を食べる」ということを言うことにしても、たぶん、自分が発言することというのは、ふと見た人を、そこそこに傷つけてしまう可能性はあるんだよなーとか考えてしまう。それはたぶん、「嫌なら見るな」というような、責任転換するようなものではなく、こうやってブログを書いたり、何かを発言したりすることの帰結なのかなとも思う。一部の、気心の知れた間柄であるならば、その人達のみに話せばいいんだけど、それが不特定多数といったときに、そのような変数は拡大に増えていく(そして、それがなかなか見えてこないのが、今のネットというところでもあるのだろう)

 そんなことを考えながら半額の寿司を食べた。おいしかったです。

黙っているユーザーは黙って離れていく

 ここ最近は、Steamとか呼ばれている、ゲームのプラットフォームみたいなもので、ずっとゲームをやって過ごしたりしている。本来、自分がゲーマーではあって、暇さえあればゲームばっかりしていた時期もあったりした。

 Webエンジニア的には、ゲームの話といえば「ソーシャルゲーム」の話が盛り上がっているみたいな話がちらほらあって、さらにいうと、パッケージングされたゲームの規模が縮小している、という話がある。なるほどなーと思う一方で、機会があれば、パッケージゲームみたいなのをたくさん買ったりして、さらにソーシャルゲームにはあんまり興味がない自分としては、なんかその食い違いみたいなのが面白くて、なんか不思議な気持ちになるのだった。

 たぶん、自分みたいなゲーマーであったり、あるいは、音楽の世界でもそうなんだけど、そういう人々というのは、たぶん「ゲーム業界」であったりとか、「音楽業界」という、いわゆる『業界』みたいな話が好きな人も幾らかいると思っている。僕も外野から眺めたりしていて「これってもう少しこう変えたら上手くいくんじゃないの?」みたいなことを考えるのだけれども、あんまりそういうを言うのは、少し罪悪感があったりする。その理由はわかりきっていて、自分がいわば市場に出て銭を切り売りしている、自分の言葉でいうなら「プレイヤー」ではなく、単なる消費者に過ぎないわけだし、そもそもそういう世界に詳しくないから、そういうのを言うのもどうなのかなー、みたいな気持ちにはなったりする。

 あと、実は、自分を取り巻くゲームの世界に関して、特に不満を持っているわけじゃないというのもある。自分の消費行動を見返してみても、結局のところ、「安くて面白いゲームが手に入れば、それでいいのではないか」というくらいの気持ちでしかないことに気がつかれるし、そのためにわざわざ「これがおかしい」というのも滑稽な話であって、現実問題として手に入っているのだから仕方ない。

 で、この辺りは別にゲームに興味が無いひとにとっては「ふーん」という感じなのだけれども、実際のところ、消費者というのは、そういうものなのだ、というのにはっと気がついたりする。

 それはどういうことかといえば、つまりそこで手に入るものが納得する価格で、面白いものが手に入ればいいわけで、暴論を言ってしまえば「その業界がどうなるかどうか」というのは、それ自体は瑣末なことなんだろうな、ということだ。もちろん、愛好家の人達にとっては、その市場が減ると、自分たちが「楽しい」と思えるものが少なくなるだろうという危機感が生まれるというのはあるんだろうけど。

 で、下手にその業界というのが大きかったりすると、割とその体制を維持したり、保守的になるというのは、割とある話だと思うし、それらをなんとかするとするなら、その「なんとかする」という部分で、何らかの形でプレイヤーになる必要は出てくるんだろうなという気がする。ただ、プレイヤーというのが「起業」とかそういう話になると、ちょっと難しい話ではあるんだけど。

 なんていうか、冬になると、そうやって黙っていく人のことを考える気持ちになったりしていた。あんまり明確な結論はではない。

冬という試練

 最近は妙に寒い日が続くことが多いのだけれども、寒い日が続くと何が問題かといえば、とにかく体調が悪くなることだ。特に、自分の場合は、冬になると立て続けに悪いことが起きたりする。例えば、お気に入りの黄色い筆箱をなくしてしまったりしているし、財布のジッパーも調子がわるく、最近になって壮大に崩壊したりした。こういうのは、モノを大切に扱わない自分が悪かったりするのかもしれないけど、仕方ない。ここ最近だと、仕事も、頭の中がもやもやしてしまって、一向に進まず、なんやかんやと現実逃避をしてしまう。仕事は仕事なのだから、なんとかモチベーションを上げたりする方法を模索しなければならない。それがしばらくの課題だとは思う。

 それはともかくとして、知り合いも冬になると体調がガクンと落ちるタイプだったりする。以前に知人から、冬になるとまるまりがちになるので、血流が悪くなって、気分が優れなくなるという話を聞いたりしていた。冬になると外にも出歩くのが億劫になるから、なおさら体を動かさなくなるからなんだろう。実際に、季節症の精神不安定さというのは存在しているらしい。低血圧で頭が痛くなる人がいるように、冬に限って、精神的に不調になったりすることもあるとのこと。

 どちらかといえば、自分は体的には健康的に生まれてきたようで、病気もあまりしないし、アレルギーといったようなものもなく、それに関してはとても感謝はしているが、一方で、目の前に三十代を目前とすると、変に健康に気を使うようになってしまう。二十代のころには、「そんなに長生きしないだろうし、死ぬとしても唐突に死ぬからそれでいいんじゃないか」ということを考えていた自分でも、例えば徹夜が出来なくなったりとか、あるいは、それほど動けなくなったりすると、現金なもので、健康バランスを考えるといいながら、サプリメントを飲んだりするようになる。

 さらに言うと、やっぱりライフリズムに関しても、だいぶ無理をしていたりしていて、というのも、仕事が終わったあとに、だらだらして、自分のやりたいことをやる、といったことをやっていると午前2時くらいになったりしている。以前だったら、そういう睡眠時間であってもなんとかなっていたけど、だんだんなんともならない現状を自覚し始めると、やっぱりこの辺も改善したほうがいいんじゃないかと思わされる。

 とはいえ、たぶん、僕なんかもそうだけれども、イケイケドンドンのときというのは、自分のことを省みないというのは多少ある。ビジネス書を眺めると『○○はなぜ成功するのか』という、煽り文句が並んでいる本がたくさんあったりするけれども、数年くらいすると、逆にそんなことを書いていた企業が、同じ理由で「失敗した」ことになっている。もちろん、状況というのは常に変わるものであるから、ある時成功していたものが、弱みになることなんていうことはざらにある。

 成功体験というのは厄介なもので、「こういう風にやっていたら成功したから、これで今後成功するはずだ」というのがどうしても刷り込まれてしまう。方法というのは、往々にして状況と結びついているのだけれども、唐突に方法が状況から切り離されて、方法だけが神格化されてしまうことがある。言い換えると、経験といってもいい。そして、それはだんだんとんでもない状態になっているということから、目を背けさせる目隠しの役割にもなったりする。

 どちらかというと、他者的には、失敗だらけの人生であったから、あまり偉そうなことは言えないけれども、ただこの時期の寒さというのは、体調が悪くなるのと同時に、体調が悪いことを理由に、自分のことを省みるのにいい季節なのかもしれない、と思ったりもする。