Archive / 2012

黙っているユーザーは黙って離れていく

 ここ最近は、Steamとか呼ばれている、ゲームのプラットフォームみたいなもので、ずっとゲームをやって過ごしたりしている。本来、自分がゲーマーではあって、暇さえあればゲームばっかりしていた時期もあったりした。

 Webエンジニア的には、ゲームの話といえば「ソーシャルゲーム」の話が盛り上がっているみたいな話がちらほらあって、さらにいうと、パッケージングされたゲームの規模が縮小している、という話がある。なるほどなーと思う一方で、機会があれば、パッケージゲームみたいなのをたくさん買ったりして、さらにソーシャルゲームにはあんまり興味がない自分としては、なんかその食い違いみたいなのが面白くて、なんか不思議な気持ちになるのだった。

 たぶん、自分みたいなゲーマーであったり、あるいは、音楽の世界でもそうなんだけど、そういう人々というのは、たぶん「ゲーム業界」であったりとか、「音楽業界」という、いわゆる『業界』みたいな話が好きな人も幾らかいると思っている。僕も外野から眺めたりしていて「これってもう少しこう変えたら上手くいくんじゃないの?」みたいなことを考えるのだけれども、あんまりそういうを言うのは、少し罪悪感があったりする。その理由はわかりきっていて、自分がいわば市場に出て銭を切り売りしている、自分の言葉でいうなら「プレイヤー」ではなく、単なる消費者に過ぎないわけだし、そもそもそういう世界に詳しくないから、そういうのを言うのもどうなのかなー、みたいな気持ちにはなったりする。

 あと、実は、自分を取り巻くゲームの世界に関して、特に不満を持っているわけじゃないというのもある。自分の消費行動を見返してみても、結局のところ、「安くて面白いゲームが手に入れば、それでいいのではないか」というくらいの気持ちでしかないことに気がつかれるし、そのためにわざわざ「これがおかしい」というのも滑稽な話であって、現実問題として手に入っているのだから仕方ない。

 で、この辺りは別にゲームに興味が無いひとにとっては「ふーん」という感じなのだけれども、実際のところ、消費者というのは、そういうものなのだ、というのにはっと気がついたりする。

 それはどういうことかといえば、つまりそこで手に入るものが納得する価格で、面白いものが手に入ればいいわけで、暴論を言ってしまえば「その業界がどうなるかどうか」というのは、それ自体は瑣末なことなんだろうな、ということだ。もちろん、愛好家の人達にとっては、その市場が減ると、自分たちが「楽しい」と思えるものが少なくなるだろうという危機感が生まれるというのはあるんだろうけど。

 で、下手にその業界というのが大きかったりすると、割とその体制を維持したり、保守的になるというのは、割とある話だと思うし、それらをなんとかするとするなら、その「なんとかする」という部分で、何らかの形でプレイヤーになる必要は出てくるんだろうなという気がする。ただ、プレイヤーというのが「起業」とかそういう話になると、ちょっと難しい話ではあるんだけど。

 なんていうか、冬になると、そうやって黙っていく人のことを考える気持ちになったりしていた。あんまり明確な結論はではない。

冬という試練

 最近は妙に寒い日が続くことが多いのだけれども、寒い日が続くと何が問題かといえば、とにかく体調が悪くなることだ。特に、自分の場合は、冬になると立て続けに悪いことが起きたりする。例えば、お気に入りの黄色い筆箱をなくしてしまったりしているし、財布のジッパーも調子がわるく、最近になって壮大に崩壊したりした。こういうのは、モノを大切に扱わない自分が悪かったりするのかもしれないけど、仕方ない。ここ最近だと、仕事も、頭の中がもやもやしてしまって、一向に進まず、なんやかんやと現実逃避をしてしまう。仕事は仕事なのだから、なんとかモチベーションを上げたりする方法を模索しなければならない。それがしばらくの課題だとは思う。

 それはともかくとして、知り合いも冬になると体調がガクンと落ちるタイプだったりする。以前に知人から、冬になるとまるまりがちになるので、血流が悪くなって、気分が優れなくなるという話を聞いたりしていた。冬になると外にも出歩くのが億劫になるから、なおさら体を動かさなくなるからなんだろう。実際に、季節症の精神不安定さというのは存在しているらしい。低血圧で頭が痛くなる人がいるように、冬に限って、精神的に不調になったりすることもあるとのこと。

 どちらかといえば、自分は体的には健康的に生まれてきたようで、病気もあまりしないし、アレルギーといったようなものもなく、それに関してはとても感謝はしているが、一方で、目の前に三十代を目前とすると、変に健康に気を使うようになってしまう。二十代のころには、「そんなに長生きしないだろうし、死ぬとしても唐突に死ぬからそれでいいんじゃないか」ということを考えていた自分でも、例えば徹夜が出来なくなったりとか、あるいは、それほど動けなくなったりすると、現金なもので、健康バランスを考えるといいながら、サプリメントを飲んだりするようになる。

 さらに言うと、やっぱりライフリズムに関しても、だいぶ無理をしていたりしていて、というのも、仕事が終わったあとに、だらだらして、自分のやりたいことをやる、といったことをやっていると午前2時くらいになったりしている。以前だったら、そういう睡眠時間であってもなんとかなっていたけど、だんだんなんともならない現状を自覚し始めると、やっぱりこの辺も改善したほうがいいんじゃないかと思わされる。

 とはいえ、たぶん、僕なんかもそうだけれども、イケイケドンドンのときというのは、自分のことを省みないというのは多少ある。ビジネス書を眺めると『○○はなぜ成功するのか』という、煽り文句が並んでいる本がたくさんあったりするけれども、数年くらいすると、逆にそんなことを書いていた企業が、同じ理由で「失敗した」ことになっている。もちろん、状況というのは常に変わるものであるから、ある時成功していたものが、弱みになることなんていうことはざらにある。

 成功体験というのは厄介なもので、「こういう風にやっていたら成功したから、これで今後成功するはずだ」というのがどうしても刷り込まれてしまう。方法というのは、往々にして状況と結びついているのだけれども、唐突に方法が状況から切り離されて、方法だけが神格化されてしまうことがある。言い換えると、経験といってもいい。そして、それはだんだんとんでもない状態になっているということから、目を背けさせる目隠しの役割にもなったりする。

 どちらかというと、他者的には、失敗だらけの人生であったから、あまり偉そうなことは言えないけれども、ただこの時期の寒さというのは、体調が悪くなるのと同時に、体調が悪いことを理由に、自分のことを省みるのにいい季節なのかもしれない、と思ったりもする。

遠回りする、そして車輪の再発明をする

 ソフトウェアの世界には、「車輪の再発明」という言葉があるらしい。具体的には、過去に実装されたものを、自分たちでまた作り直してしまうことだ。そして、この「車輪を再発明すること」は、少しだけ嫌われている。それは解らなくもない。既に、そういう実装があるとするなら、そっちを利用したほうがより合理的であるのは確かだからだ。自分自身も、あまり自分のことを信頼していないし、スキル的にもあまりよろしくないと思っているので、自分がそういうのを実装するより、まず最初に技術的にも歴史的にも、それなりに積み重ねられているライブラリを探したりする。

 とはいえ、この「車輪の再発明を避ける」という行為は、業務だったらわからなくもないけれども、少なくとも自分の興味内で「車輪の再発明」をすることは悪いことではないように思う。というのは、趣味の世界というのは、なんだかんだ言って、過程を楽しむ世界でもあるからだと、僕は思っている。例えば、僕がこういう文章を書いていることだって、過去にたくさんあるだろう。なものだから、さすがに自分を単独無類の存在だとは思っていないし、大抵のアイデアは思いついたら過去50年間に思いつかれている、くらいのことは考えている。だけど、こういうのをわざわざ書くのは、なんだかんだいって「何かを書きたい、そして書いている」という過程が、それなりに好きなのだろうとは思う。

 昔から、「1日は24時間しかないので1秒1秒を大切にしましょう」という考え方があまり好きではない。というのは、自分が昔から本番に極端に弱いというのもあるんだけど(だいたい、本番になると変なミスをしてしまって全てを台無しにする)、もう一つとして、「1秒を大切にすることというのは、もしかしたら1日を大切にしないことかもしれない」とか思ってしまうからだ。

 僕の失敗談を話しておくと、僕が大学受験生だったころ、参考書ばかり集めていたことがあった。それは単純な話で、自分がやっていることよりももっとよりよい効率的な方法が何処かにあるんじゃないか、って常に思っていたからだ。だから、やたらと参考書に関しては詳しかったんだけど、成績自体は余り伸びなかった。そりゃそうで、確かに正しいアプローチを知ることも大切ではあるんだけど、方法は方法であって、中身を手助けしてくれるものではない。結局のところ、それらはやってみなければどうしようもないことだ。

 そういう意味では、「遠回りをする」ということも、一つの大切なことではあると思う。前にも書いたとおり、余りにも的外れであっても仕方はないんだけど、だからといって効率ばっかり追い求めるのも、逆効果であると思う。それなりに失敗してみることで、始めて解ることも多々あるわけだし、また人はその結果だけで生きているわけではないことを考えるならば、そういう過程というのは(状況によるけれども)大切だと思う。

 自分とかは、嫌な人間であるので、たまに「ああ、それ見たことあるよ、○○の奴でしょ」と、過去のことを引っ張り出してきては嫌らしいことを言ってしまうんだけど、とはいえ、基本的には「人が何かをすること」というのに対しては、できるだけ否定したくはないという思いはある。とはいえ、これもなかなか難しくて、まあ自分が嫌らしい人間だからだと、「君が何か言うから、何かしようとする気が失せる」と伝えられて反省することは、多々ある。

 前に読んだ本で、「小説家というのは、過去の作品について知らないから、小説を書こうという気になれるんだ」という話をしていて、このものの言い方も嫌らしくてなかなか好きなんだけど(類は友を呼ぶという奴かもしれない)、創造性というのは、ある部分ではこういった「無知」に根ざしている部分もあるように思われる。僕は、自分と同じ文章を何処かで書かれていることを知らないからこそ、逆にこうやって伸び伸びと書けてしまうわけだ。だとするならば、遠回りというのは、ある意味、楽しむことに一番近道なのかもしれない(と思うと気が楽だ)。

 人生は短すぎるというけれども、ただ一方でそういう風に考えるのも気が短いだけかもなーとも思う。

「悪い脳」をハックする

 たぶん、多くの人々は、自分のことを「良い人間」だと思うところがあると思う。どんな悪い人間にしろ、「自分は賢くやっている人間」であるとか、そういう風に自分を規定しているところはあると思う。もちろん、自己否定に走りがちな人間も多くいるとは思うし、自分も立ち止まると、そういう意識が入ってくる人間だから、分からないことはない。そういう人間でも、周りに良く見られたい、とかはあると思う。

 やっぱり、自分は悪い奴だというか、性格が悪い人間だと自覚させられる瞬間は何度かある。例えば、人を小馬鹿にしたいとか、見下したいとか、そういうの。そういう心情的な部分は無いほうがいいんだけど、でもそういうのは存在してしまうのは仕方ない。そして、その心情というのはなかなかやっかいで、もしかしたら直らないかもしれないし、無理に直そうとすると、変な風に曲がってしまう、ということもたぶんある。

 そのあたりに関しては、フロイトという精神分析の人が、「昇華」という概念を使ったりしている。これは防衛機構全般のことを指したりすることもあるんだけど、もう一つは「成功した防衛機構」と呼ばれたりもするらしい。要するに、自分の欲望が社会的な価値にトランスレートできたときのことを指す。例えば、自分の破壊衝動を文章とか絵にぶつけたりとする、といった場合だ。

 この考え方自体は、好きだったりする。

 例えば、「誰かに認めてもらいたい」から絵を描くとか、あるいは「モテたいから」バンドをやる、といったようなそういう動機付けというのはやっぱりある。そういうのがあって、そこから作品が生まれることは悪いことではない。逆に言うと、そういうのが強烈なモチベーションになったりする。例えば、二次創作やRemix作品に対する「リスペクト」という言葉は、ちょっと立ち止まることがあって、たぶん憎悪から生まれた作品であったとしても、それがいいものであるならば、むしろそれでもいいと思うし、僕はどちらかというと、そういうものに振れてきた人間だから、どちらかというとそういうのに少し親近感を覚えてしまうのだろう(たぶん、僕たちが責めるべきなのは「作品に対するリスペクトを欠いている」のではなく、「作品の完成度が余りにも負けている」という状態だと思う)。

 とあるところで、僕は「上から目線駆動学習」というのを説明したことがあって、それはどういうことかというと、要するに「人を小馬鹿にしたい、見下したい」というのがきっかけで勉強を始めることはあるということを話した。それは僕の悪い部分ではある。もちろん、この方法には欠点があって、容易にコストパフォーマンスの高い「バカにしたい」という結論を導きだしてしまうことだ。要するに「天狗になってしまう」という場合だ。しかし、それも悪いことではない。「天狗になる」ということは、場合によっては、何かしらの行動に移すきっかけとなるからだ。「自分になら出来る」という全能感がないと、踏み出せない一歩というのもある。

 たぶん、そういう「否定したい自分」というのは、もしかしたら運用次第によっては、「肯定したい自分」という可能性が秘められたりする。どんな物事であれ、それは両義的な価値を秘めていることが多々ある。ガソリンが、暫くの間は実用に耐えられなかったように、そういうゴミみたいな道徳みたいなものが、ちょっとズレているところに、もしかしたら、価値を転換できるような何かが秘められている可能性だってある。

 もう一つ。精神分析が示唆するところによれば、「自分が自分の意識として考えている欲望というのは、実は錯覚かもしれない」という話がある。つまり、自分の欲望に忠実になるというわけではなく、その欲望をこなそうとする遠回りに、もしかしたら自分の内なる欲望が隠されているのかもしれない、と考えると、ちょっとだけ面白い気もしてくる。