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「無能」であることから始める

 例えば、本屋にいくにしろ、ブログとかを読むにしろ、「出来る人の○○の習慣」みたいなのが上がってきたりする。それを読んだりするけども、「ふーん」という感じになって、すぐに閉じてしまう。

 その理由は、そういう記事に特有の、何だかよくわからない「いけすかなさ」を感じるという、自分の性根の悪さのせいもあるのだけれども、さらに言ってしまうと、たぶん、それはそういう記事における自分のアプローチとの相性の悪さというのもあるんだろうな、ということを感じる。

 まず一つに、自分が「無能」であるという自己認識から始める。「無能」であるということは、例えば何かを継続してやろうとしても、習慣化することは無いし、またすぐになんだかんだ理由をつけて放り投げしまう、という「自分への信頼のなさ」を前提としている。もう少し言うと「意識の高さで克服できるような何か」ということを端から期待しない。少なくとも、意識の高さでなんとかなるとするならば、既に自分は何かできているはずだからだし、正直なところ、早起きしようとしても二度寝してしまって、結局間に合うぎりぎりに家を出るような体たらくにならないと思っている。

 基本的に、自分が何かをやりたいといった場合であったり、何かを改善したいといったときに、まず手をつけるようにしているのは、基本的には「そのようにしなければならない環境構築」と、「それを手助けるための道具」、この二つがないかどうかを調べることだ。言ってしまえば、要するに「自分がそうしなければならない状態」というのをある程度作ることが重要だと思う。そして、それは自覚的にやるということ。自分が仕事に集中しようとしてできかったり、あるいはブログを集中して書こうと思ってもなかなか出来なかったりするのは、それができてしまう環境があるからだ。だからこそ、そういう「できてしまう環境」というのを封じ込める必要がある。そして、その環境を構築するための道具を作る。

 あともうひとつとして、これらの「そのようにしなければならない環境」と、「それを手助けするための道具」について、試行錯誤していくのが重要だと思っている。元々、自分の性分としていろいろ試すのが好きだから、半分くらいは趣味みたいなものである。これが重要なのは、その環境が自分にフィットしないと駄目だからだ。闇雲に縛り付けるだけでも、ただ疲れてしまう。疲れてしまうということは、持続可能性が無い。持続可能性というのは、おそらくは「無理をしない」ということと、「喜んで!」というところがある。

 だから、環境を作るにしろ、それは自分のアプローチに納得する形に作る必要がある。たぶん、それで辛かったり、疲れてしまう場合は、そもそもの前提が悪い可能性もある。とにかく、自分が「出来そうだな」というのがなかったり、あるいは「やれてよかったな」というのがないと、自分は辛い感じがする。苦痛があることは、人生において仕方ないことであるが、苦痛は軽減したいところではある。

 自分はそういう感じで考えていたりする。これが実践できているかどうかはともかくとして、「無能」なりには前進していると思う。

僕達はあまりにも繋がりすぎてしまって

 昨年からもそうだったかもしれないけど、今年もやはりというか、なんというか「ソーシャル」という言葉がやたら出てくるなあという感じだった。ソーシャルに関しては、愛憎的な、微妙な気持ちを覚えたりすることが多々あって、その辺をメモしておく。

 ソーシャル周辺の美談としては、例えば、ふと思いついたアイデアをアウトプットした結果として、それが人々から伝達され商品化されたり、あるいは何か心を打つエピソードが一瞬で広がったり、あるいは緊急時に情報が広がっていくといったような、そのような側面があるということは否めない一方で、例えば、ふと人々が不愉快になる発言をした場合に、一気に叩かれたりしてしまう。そういうメリット・デメリットみたいなのが存在しているのは確かではあるし、例えば一時期流行った「ソーシャル疲れ」というのも、結局のところ、人の眼を気にしすぎちゃって何も書けなくなる、みたいな話であった。

 「ソーシャル」というのは、内輪の空間を巨大な「公共物」の中に投げ込んでしまう。そして、現実問題として、人々が関わりたいのは、「目の前にいる人々」であって、「遠くにいる誰か」ではない。そういうのを考える人もたぶんいるのだとは思うけれども。恐らく、ソーシャルの美談であったり、炎上であったりというものは、「目の前にいる誰か」を飛び越えて「遠くにいる誰か」へと送り込んでしまう。そして、私たちのコミュニケーションというのは、たいてい「目の前にいる人々」に最適化されてしまっている。なので、「遠くにいる誰か」が不愉快であるかよりも、「目の前にいる人」が喜ぶことを、まず考えてしまう。

 そういう意味では、元Facebookの作った「Path」なんかは、まさに「目の前にいる人」というのに特化したものだろうし、あるいは「LINE」も、もしかしたらそういうことなのかもしれない。僕は一時期から「繋がる」ということについて、それほど過剰に意味づけしていいのだろうか、という疑問がずっとあった。それは、元々それほど僕が人付き合いが得意でないから、という理由もある。とにかく、ある部分では、繋がりすぎているというのが、やはりある。

 アンチソーシャル、というほどではないけれども、結論が「やっぱりソーシャル」になってしまうと、それはとてもつらいなあと思うことはあるし、そこから離れるためのコンセプトというものはいったい何になるんだろうというのは気になって仕方がない。たぶん、ソーシャルと言うことによって、ソーシャルでないメリットを、何らかの形で失っている。

 もちろん、それはインターネットの回線を切れば、そこには静寂が広がっているわけだから、それでいいのは事実だ。だけれども、単に回線を切るだけでは寂しすぎる、という感情もある。もう少し建前を取り繕うなら、やはり「ある程度人に見せることを前提とする」のでなければ、それなりに意識的に文章を書いたりもしないだろう、というのもある。とにかく、この矛盾した感情というのに対して、どのように形を与えるのか、というのは、自分の課題でもある。

「パクる」ことの才能

 よく言われていることの一つに、「学ぶということは真似るという語源と一緒である」という話であって、何かを作ったりするときには、模倣するという方法が効率的であるという話があって、そのことに関しては否定はしないんだが、しかし同時に「真似る」ということが簡単である、みたいな話になると、どうしても「ちょっとそれは簡単に言い過ぎじゃないのかなあ」と思うことがある。

 何かのアイデアを思いついて、そのアイデアを煮詰めていくという時間というものは存在していて、いろんな選択肢の中から、これが一番効率的である、みたいな検証作業というのがあるのはわかっていて、たぶん何かを「真似する」ということは、そういう検証作業をすっとばしているという意味で、卑怯に感じるんだろうとは思うし、自分もそう思う。

 例えば、エジソンが白熱電球を作るときに、いろんなプロトタイプを作っていて、やっとフィラメントに竹を採用する部分に行き着いた、という話があるが、「じゃあ俺たちも竹を使おう」と言ったら、そりゃなんだか「ずるいなあ」という感覚はあるだろうし、俺にもある(場合によって、真似された本人は怒るだろう)。

 それを認めた一方で、じゃあ実際にエジソンの白熱電球を真似しよう、としたときに、やはり真似するには、「どこを真似すればいいのか」という感性が必要になってくる。ソフトウェアにも言えることだけど、あるユーザーインターフェイスを実装して、確かに「ガワ」は一緒なんだけど、どことなく使いにくかったり、あるいは全く邪魔なものになったりする。

 秋葉原のジャンク通りにいくと、そういう「パクリ」商品が多々あって面白く感じる。たまに、そういうのを興味本位で買ったりするんだけど、やっぱり恐ろしく使いにくかったりする。それは、やはり「何処を真似するか」という感覚なんだろうと思う(そして、それは往々にして「見た目だけを真似すればいいや」という感じに陥りやすかったりする)。

 たぶん、「真似をする」という部分においても、当たり前だけど「真似することが出来るまでのスキル」というのが存在しているはずなのだ。その「真似をすることのスキル」というのは、単純にそれをそのまま複製できるというスキルだけではないはずで、もっというと「それを真似するための勘どころ」みたいなものも同様にあるはずだ。その「勘どころ」というのは、ある程度、それらを飛び込んで、自分なりの試行錯誤をやっていかないとよくわからない部分だったりする。

 俺が中学生のころ、最後まで居残って古典の勉強をしていた子がいて、そこまで勉強していたんだから、きっと点数もいいんだろうと思っていたけど、全く出来ないで、どちらかといえば下位の成績ばっかり取っていた子がいる。とはいえ、世の中は勉強だけではないから、それで「点数が良いこと」以外のことを、何か学び取った可能性を信じつつ、やはり単純に「真似をすることは楽なのだ」という話にも、なんだか口ごもってしまうのだった。

「考えさせない」ための娯楽という価値

 例えば、何らかのエンターテイメントに対して、「考えさせられる」という褒め言葉が使われることがある。それに対して、「何も頭を使わないもの」に関しては、逆に、やはり少し劣ったエンターテイメントだと見做されることがある。もちろん、娯楽に対する評価軸が、これだけであるとは思わない。だけれども、「考えないこと」の需要について、「考えさせられる」という需要よりも、真面目に考えられることはあんまりないように思われる。

 たぶん、この問題があまり考えられないのは、「考えさせない」という娯楽が、一部の「考えない層」向けという側面があるという風に考えられるからで、それはそれで間違いはないのかもしれないけど、それはそれで半分くらいしか説明していないんじゃないか。

 この話を考える前に、少し遠回りをする。キヨスクに官能小説が売ってある理由とはなにかみたいな話を知人から聞いたことがある。それは当然「それなりに利益が出る」からなんだけど、でもじゃあ誰が買っているのかという問題になる。キヨスクの官能小説を愛読している一人に、医師がいたという。どういうタイミングで読むかといえば、例えば新幹線で別の病院へいき、重要な手術を行い、その帰り道に読んだりするという。なぜ、その医師が官能小説を読むかといえば、「現実とは関係ないことであるし、またそれほど頭を使わないから」だという話があった(らしいが、もしかしたら記憶違いかもしれない)。

 この話でやはり思うのは、プレッシャーやストレスから開放されるための娯楽というのはある。実際に、「仕事中に散々頭を使っていたのに、なぜプライベートまで頭を使わなければならないのか」という人はそれなりにいるんじゃないんだろうか。だからこそ、単純なゲームのほうが望ましいということはありうる。そのゲームをやっているときだけは、何も考えなくていいと思うのは、それはそれで価値だ。

 例えば、筒井康隆の短篇小説に『にぎやかな未来』というのがあって、この短篇が自分としては気に入っているので、よく引用する。これは広告を終始聞かなくてはいけなくなった世界において、もっとも価値のあるCDというのは「何も入っていない」CDだった、という話である(つまり、静寂!)。そういう風に考えるなら、考えることが多すぎる現代では、「考えないこと」というのは、同様に価値をもってしまう瞬間もある。