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カルトについて少しだけ

 まず最初に、確かジジェクか何かの本に載っていた小話から始めたい。

 とある街に仲の悪い夫婦がいた。夫が家に帰れば、妻から皮肉やら罵詈雑言やらを浴びせかけれてしまう。ほとほとに疲れてしまった夫は、家の外に愛人を作り、不倫をするようになった。そのうち二人は強く惹かれるようになり、愛人も「妻と別れてほしい」と迫るようになる。最初、その夫は躊躇していたが、ずっと悪く言われるよりも、若くて美人な愛人と第二の家庭を築きあげたほうが、より幸せになるのかと思いはじめ、とうとう妻と離婚をした。その結果、愛人と一緒に暮らすようになったのだが、不思議なことに段々と愛人への恋が冷めていってしまい、気がつけば一年も経たずに二人は別れてしまった。

 このような人間の矛盾に関して、何らかの無意識的な説明を求めたのがフロイトであった、ということができる。もちろん、フロイトの仮説は、現代的な心理学の見地からすると反駁されている仮説も多くある。そのように断った上で眉につばを付けながら読んでみると、意外と面白かったりする。

 その面白い説明の一つに、エロスとタナトスの関係について説明したものがある。

 フロイトは、人間には二つの欲求があると見ている。エロスはわかりやすく「生を統一し、保存しようとする欲動」である。もうひとつの欲動とは「破壊し殺害しようとする欲動」である。

 この二つ自体の欲望自体はフロイトでなくても想像できる範囲であるという意味では、フロイトの独創ではないだろう。フロイトの独創が光るとするならば、この二つはお互いに連動しているということだ。フロイトの言葉を借りるならば、現代人は「愛する者の死を強く望んでいる」という両義性がある。

 例えば、フロイト光文社古典新訳文庫の『人はなぜ戦争をするのか』という本に収録されている「喪とメランコリー」という文章に、以下のような鬱病に対する理解を載せている。

 こう考えると、鬱病感情の態度は理解しやすくなる。語の古い意味で、彼らの愁訴は告訴なのである。彼らが自分を卑下して語るすべての言葉は、基本的に他者を指して語られているのであるから、それを語ることを恥じることも、隠すこともないのである。患者は品格の卑しい人物にふさわしい形で、周囲の人々に自分の謙遜や卑下の気持ちを表明しているのではない。むしろ周囲の人々からひどく不当な目にあわされた人物であるかのように、この以上ないほど苦しみ、自尊心を傷つけられているのである。これは、患者の精神的な姿勢の反応がそもそも周囲にたいする反抗という態度から生まれているからこそ可能なのである。(p.112)

 これが鬱病の解釈として正しいかどうかは、臨床を行っている精神科医に任せよう。ポイントは「「自分のようなできそこないの女と結婚して、あなたがかわいそうだ」と語る妻は、それがどのような意味で言われたとしても、もともとは夫ができそこないだと告発している」といったような攻撃性が見え隠れすることがある、ということだ。このような攻撃を直接的に表現してしまうと、殺し合いに発展してしまう可能性がでてくる。したがって、文明人ならば婉曲的に表現する必要が出てくるわけだ。

 精神分析の妙は(胡散臭く、危険な橋になる理由は)、私たちは往々にして、願望とは全く逆のことを表明することによって、無意識的にその目的を達成させることがあるという洞察にある。例えば、実際は家族の事を憎んでいる女性が、事あるごとに「家族が最も大切である」と口煩く言うことによって、家族関係を冷めさせるということはありうるし、さらに家族が崩壊することによって「家族が最も大切である」という情熱が持続するとも言えるのだ。

 最初の話である、夫が愛人への欲望が冷めた理由も、これで説明することができる。すなわち、この夫は「愛人を求めていた」わけではなく、「愛人を求める」ことによって、妻に苦痛を与えることが目的だったと説明することができる。そして、妻への最大の苦痛である離婚を達成したことによって、「愛人を求める」という欲望に根拠がなくなってしまったということが可能なのである。

 もちろん、この種の精神分析の問題は「あなたの本当の欲望とはこれである」というような断定にある。このような断定は非常に危険なものであることは間違いない。しかし、私からすれば「カルトが無ければ、幸福で善良な家庭として一生を過ごせた」と無条件に仮定することも、余りにも素朴すぎるように感じる。フロイトは正直失敗した精神分析家であるというのが私の感想であるが、しかしただフロイトの書くような逆説的な暗さというのは、私にとってはとても実感を持って理解できてしまう側面があるからこそ、このように興味深く読んでしまうのである。

内田樹の「アメリカン・ミソジニー」という文章について

 私は内田樹というエッセイスト(本来ならばレヴィナス研究者という肩書のほうが適切ではあるが、いわば文章としてはこちらのほうが適切な書き方になるだろう)の文章をたまに読んだりする。それは内田樹の文章が、ときどき、限りなくヘンなことがあるからだ。そして、おそらくそのヘンさというのは、立ち止まって考えさせるための内田樹的な文章的戦略を狙っているのだろうから、敢えてそこに乗っかってみるのは必要なことだとは思う。

 で、しばらくヘンな文章というのは何かというと、文春文庫『映画の構造分析』に収められた「アメリカン・ミソジニー」という文章である。この文章の立ち位置は、自分から説明するよりも、本人が書いている文章を引用したほうが早い。

 アメリカン・フェミニズムというのは、「アメリカ男性のアメリカ女性に対する憎悪をさらに強化するためにアメリカ社会全体の暗黙の合意のもとに形成された呪鎮のイデオロギー」ではないかと私は疑っているのであるが、この仮説に共感してくれるひとはたぶん日本の知識人の中には五人くらいしかいないであろう。だから、この賞をお読みになった方が私の仮説にまったく同感できなくても、それはきわめて正常かつ健全なリアクションであるので、何ら心配されることはない。(p.236)

 ではこのように解説に書かれた文章においての中核となる主張とは何かというと、恐らく次のような文章になる。

 女性嫌悪の説話原型が、ハリウッド映画の現場に、フロンティアを失った開拓者たちが流れ込んで来たときに定着したということが証明されれば、女性嫌悪が西武開拓者的エートスのうちに根ざしているという私の仮説もそれなりの根拠があるということになる。しかし、とりあえずは「思いつき」のままでよい。私が指摘したいのは、ただ「男だけの集団」に「希少性ゆえに決定権を持つ女」が侵犯してきて、男たちの「ホモソーシャルな集団」の安寧秩序を乱し、多くの男に「選ばれなかったトラウマ」を残したために、「選ばれなかった男たち」が女の悪口を言って、その傷跡を癒やすという自己治癒の物語が、ほぼ二世紀にわたってフロンティアの全域で繰り返し語られたはずだ、ということだけである。(p.229)

 この文章が奇妙なのは、今から考えるとこの論旨が痛いほど良く解るからだ。そして、それがよく分かるということ自体、その解説当時に書かれたことから考えれば「異常事態」ということでもある(もちろん、知識人の五人にしかわからないことが、私のような「大衆・亜インテリ」の大半には解る、という自体は普通にありうる事態ではあるのだが)。少なくとも、内田樹の文章には同意しないが、しかしその主旨や問題意識は解るという人は幾らでもいるように思う。

 この文章が私にとって奇妙に見えるのは、言ってしまえば明らかに時代の断絶を感じるからだ。というのも、この文章が書かれた当時というのは、本文で書かれているように「アメリカ文化が「世界文化」と同義」であり、であるが故に「世界のあらゆる文化にひとしく検知されるはず」であるということを「日本のフェミニズムたちに無批判に受け入れられている」という前提を元に書かれているからだ。

 ポイントとしては、この裏側には日本のフェミニズムはその前提を当たり前にしているが、それ以外の人達にとってはその前提は当たり前ではない」ということが含意としてある筈だ。だからこそ「日本の知識人の中には五人くらいしかいない」という文章が解説に書かれたのであろうと思う。そして、この裏側には(明らかに深読みである、と言い訳しつつ)「日本の知識人の中には五人しかいないが、街場の人々には同意してくれる人がたくさんいるだろう」という意見が含意されいるように思う。

 実際、私自身は内田樹さんの「アメリカン・フェミニズムというのはアメリカ男性のアメリカ女性に対する憎悪をさらに強化するためにアメリカ社会全体の暗黙の合意のもとに形成された呪鎮のイデオロギー」を半分くらい認めても良いように思う。だが、しかしこの文章は、このように「女性がフェミニズムであることによって、男性の女性に対する憎悪が増幅される構造は、元々はアメリカ固有の問題だよ」という意図をこめているようにも感じる。

 だが、この文章がどのような意図をもってして書かれたか自体はあまり意味がないことではあって、わざわざこのような文章を取り上げたのは、今宵の「フェミニズム/アンチ・フェミニズム」の議論について、以下のような問題提起をしたいからである。

  • フェミニズムを主張することによって、男性が女性への憎悪を強化する」という構造がアメリカ固有の呪鎮のイデオロギーだと仮定した場合、それが日本でも同様の構造が認められる場合、それ自体がアメリカの反復であるとも言えるのか?それとも、この構造は「アメリカ固有の呪鎮のイデオロギー」を超えて人類全体の「呪鎮」と関わっている可能性はあるのか?

 もちろん、フェミニズムからすれば大本の「女性嫌悪」を無視して何を勝手なことを、と言うのは全く正しいことではある。ただ、一つあるとするならば、内田樹が「起源」に対して知的関心を持つとするならば、ある前提を受け止めた場合、それがどのように変節するのかという「過程」に知的関心があるとも言えるタイプではある。

 だから、例えば「グローバリゼ―ション」とは、アメリカの「ローカル・スタンダード」を「世界標準」にしようとする価値観であり、それに「知的抵抗が組織なされなかった」ということに不思議がるのはわかるのだが、しかしそのような感染力、あるいは感染の結果、なぜそれが日本でも見られるようになってしまったのかという「起源の過程」みたいなものが、恐らくこの問題には必要なのかもしれない、と同様に思ったりするのである。

 古典を読んでいるときに露骨な偏見やら、穿った意見が出てきて妙な気持ちになることがある。最近の例でいうと、モンテーニュの『エセー』を読んでいたときに、次のような文章が出てきて、なにやら不思議な気持ちになったりていた。(以下の引用は、岩波文庫の二巻、『第二章 第三章・ケオス島の習慣』からの引用である)

 良心に対して加えられる暴力のうちでもっとも避くべきものは、私の考えでは、婦人の貞操に対するb法力であると思う。そこには自然にいくらかの肉体的快楽がまじるからである。また、そのゆえに、婦人の拒否も完全ではありえないし、その暴力には婦人の側からの多少の同意がまじるように思われる。ペラギアとソフロニアは二人共、聖女の列に加えられているが、前者は数人の兵士の暴行を避けるために母と妹たちとともに河に身を投げ、後者も皇帝マクセンティウスの暴行を逃れるために自殺した。教会の歴史は、暴君どもが良心を辱しめようとしたのに対し、死をもって身を守った心身の厚い婦人たちのこのような多くの実例に敬意を表している。

 現代のある博学な著者、しかもパリ市民である著者が、今日の婦人たちに、こんな捨て鉢なすさまじい決心をしないで別な方法をとるようにと説得につとめたことは、おそらく将来、われわれの名誉となるであろう。私は、トゥルーズで聞いたある女の言ったうまい言葉をこの著者が知らずにいて、物語の中に加えることができなかったのを残念に思う。この女は数人の兵士の意手に渡って、こう言った。「ああ、ありがたいことだ。せめて一生に一度だけでも罪を犯さずに堪能できたのだもの。」(p.263)

 このような一種の安っぽいポルノみたいなことを書き残しておいたのか、と首を傾げるのだが、しかしこのような身体構造の違いというのは躓きの種になりやすいようで、例えば過去にも引用した岸田秀の新書(『性的』にも、下のような一文が書いてあったりする。

 男の性欲が単純明快なのは、男の子においては男根が性器期における性器となるので、男根リビドーはそのまま順調に性器リビドーに行こうし、男根期の性欲の形をそのまま持続すればいいからである。それに反して、女の性欲はないと言われたり複雑怪奇でよくわからないと言われたりする。謎だとか暗黒大陸とか言われることもある。女の性欲が、男の性欲ほど単純明快でなくはっきりしていないのは、女は男根を膣に入れるという能動的な形の男根期の性欲を、性器期において膣に男根を入れられるという受動的な形に逆転しなければならず。その逆転は、挫折感、劣等感、屈辱感が伴うので、なかなか順調にはゆかないからである。言ってみれば、女は男としての性欲を形成しかかっていたのだが、それが遮断され、かといって、女としての性欲もうかく形成されないのである。女が性器性欲をもつだためには、男根リビドーをいいわば膣リビドーに変えなければならないが、この過程がうまくいゆかない。そのうまくゆく程度というのか、うまくゆかない程度というか、それが個々々々で違うので、ますます複雑になる。膣は男根の単なる受け入れ器官とみなされ、性器性欲の座となることが妨げられることが多い。(p.26)

 この手の「性器信仰」には少なくとも慎重にならざるを得ないが、ここには明確に精神分析が非科学的でありながらも、参考にするべき一つの洞察がある。それは「男性と女性は、その性欲の構成が根本的に違うのではないか」ということである。念の為、書籍にもなった斎藤環『生き延びるためのラカン』の第十四章「女性は存在しない?」も引用しておこう。

 ラカンによれば、性的な享楽は、すべてファルス的享楽ということになる。そしてこれは、さっきも言ったように、男性的な享楽だ。じゃあ、女性的な享楽はというと、そこにはファルス的な享楽という側面もあるけれど、もう一つの側面、つまり「他者の享楽」という要因も大きいのだという。この「他者の享楽」ばかりは、男性原理ではどうしても理解できない領域だ。どういう種類の享楽かは、あとでちょっとふれる。ただ、俗にも女性のオーガズムの方が男性よりも深くて長いなどという話があるけれど、それはこういう享楽のあり方を指すのかもしれないね。ひとついえることは、男性的な享楽はファルス的な享楽というくらいだから、能動的で、そのおよぶ範囲も限られている。でも他者の享楽は、もっと受け身で、深いレヴェルに届く。そういう違いがあるというべきかな。そしてラカンによれば、女性はそういう享楽を経験はするけれども、それについては何も知らないということになる。

 多くの場合、説得をするさいには人間の対称性を前提にしていることが多い。人間の対称性とは即ち「私の考えていることは、また相手も同様に考えることができる」という前提である。しかし、この状態は欲望のレベルでは当てはまらない可能性がある。そのような直感を、なんとか科学的に説明しようと、例えば男性脳やら女性脳だとか、そのような話は定期的に話されるが、どのように構造化されるかはともかくとして、そこに性差があるということ、言ってしまえば「人間は欲望という意味では非対称である」ということ、即ち「男性的な欲望の仕方と、女性的な欲望の仕方は違う」という問題に行き着く。であるが故に、例えば女性が不愉快に思う描写を「そのまま」性別を入れ替えてミラーリングしても、それがうまく当てはまらないのはそのせいであったりするのは、この辺りについてお互いが勘違いしている理由でもあろうと思う。そして、政治的なイデオロギー批判が、精神分析と合流するのは、まさにこのような欲望 / 利害の非対称性について、非常に示唆的であるからだろう。

ダブルスタンダードについて、あるいはなぜ大人は汚いのか

 確か、ちくま新書の『満たされない自己愛』という本に書いてあったと思う。メモを紛失したので、正確な内容を提出することが出来ないが、人が怒る理由のトップは、不当に扱われたとか、あるいは無碍にされたとかそういうものではなく「ルール違反に対する怒り」ということであるということを説明していた。それが「本当の理由」かはともかく、意識にあがりやすい怒りというのはそういうもので、それは今宵「ダブルスタンダード」という言葉が頻繁に飛び交っているな、と思うのは統計的に裏付けのあることであるとも言える。

 前に、別の場所でスウィフトの『召使心得』について論じたことがある

 スウィフトがその本で書き出したのは、召使い達がズルをし、ズルを黙認する代わりに分け前を要求することで、ズルのネットワークが出来ていることであるというのが、その話の本筋である。ズルというのは、本来使えるロウソクを交換してちょろまかしたりする、といったようなことだ。この場合は「本来ならばロウソクは全部使い切ってから交換するべき。ただし貧乏で困ってるならばちょろまかしてもよい」という二重規則の話ということが出来る。

 その意味では、ダブルスタンダードとは、利害関係と党派性を形成するための方法であるということが出来る。だからこそ、私たちがダブルスタンダードに対して嫌な気持ちになるのは、実際は話が逆なのであって、むしろそこに利害関係と党派性が形成されていることを直感的に把握するからこそ、このような気持ちになるわけだ。

 だが、パスカルの皮肉である「田舎者だけが人を田舎者と呼ぶ(パンセ・五二)」を思い起こし、また利益をぶら下げれば人は動くという世知のことを考えれば、私たちは何らかの形で常に利害関係と党派性を形成しているということを内面化しているが故に、このような発想が出てくるといってもいい。

 そこで、この手の規則についての考察ならばスペシャリストであったカントの本を取り出すのが、ベタではあるものの、重要なことだろうと思う。ポイントは、カントといえば良く引き合いに出される定言的命法ではなく、むしろ仮言的命法である。(以降は岩波文庫版の『道徳形而上学原論』)

 仮言的命法というのは、直接的な定義で言うならば「我々が行為そのものとは別に欲している何か或るもの(あるいはそれを欲することが、とにかく可能な何か或るもの)を得るための手段としての可能的行為を実際的に必然的であるとして定義する」ものである。さらに註からも引用するならば、「作用する原因としての理性的存在者の原因性に関する諸条件を、結果と結果を生ぜめるに十分であるという点とについてだけ規定する」とする。普通のカント入門書を開くと、この辺りは、たとえば「もし○○ならば、☓☓をするべし」というような命題であるということができるだろう。

 仮言的命法の目的は、とりあえずは「幸福を求めようとする意図にほかならない」としているわけだ。例えば、典型的な話としては「困窮して金を借りねばならなくなっている。彼は他日その借金を返済できないことを自分でよく承知している」という場合だったりする。この場合、「本当に自分が困っている時ならば、嘘をついてもよい」という話であるのたが、私はカントがこの「幸福を求めようという意図」が当てにならない理由を興味深く思ったりする。それは引用するならば次のようになる。

 目的〔の達成〕を欲する人はまた(理性に従って必然的に)この目的を達成するために彼が自由に使用できる最上の手段をも欲する、と。しかし実際には、幸福の概念が甚だ明確を欠くところから、およそ人間は誰しも幸福を獲ることを望んでいるのにも拘らず、彼が真に希望しかつ欲するところのものがなんであるかを、明確にまた彼自身の真意に即して言い現すことがどうしでもできないのである。その理由は――第一に、幸福という概念に属するいっさいの要素はすべて経験的であって、これを経験に求めねばならないからである。第二に、幸福という観念をもつには、私の現状の状態およびおよそ将来のいかなる状態においても、考えられ得る限りの幸福の絶対的全体、すなわち最大限の仕合せを必要とするからである。(p.79)

 私は学者の訓練を受けていないので、勝手に解釈するしかないわけだが、この一文に私が興味を引かれるのは、カントが述べていることが「人間は幸福について知らなすぎる」ということではなく、「人間は自らの幸福を自覚するほどには、自身について何も知らない」という風に言っているようにも思えるからだ。

 例えば、クレタ人のパラドックスを考えてみよう。実際のところ「クレタ人はウソつきだ」という言明自体は、実はパラドックスでもなんでもない。なぜなら、これ自体は検証可能なものであるからだ。この言明をした人間を除く、クレタ人一人一人の過去の言動を調べてみれば、いつかは「クレタ人がウソつきかどうか」は真偽可能である。しかし、問題はクレタ人の発話主体が呼び出された瞬間に、この言明自体の真偽が不可能になるように見えるということがポイントなのだ。言ってしまえば、眼球がその観察主体を死角化する(良く言われるように、眼球は自分自身の頭を見ることはできない)ように、言語にもこのような死角性がある。

 このように考えていったとき、仮言的命法は次の言葉にいきつく。それは「もし私ではなければ、☓☓をするべし」という言明をするという言い方もできてしまう。そして、これが言葉の死角性なのであり、もっと言ってしまえばイデオロギー(観念)でもあるということができる。その痕跡は、カントの本には下のように残っているということができる。

 ところで年少の頃には、さきざき我々の障害にどんな目的が現れるか知れたものでないから、両親はとりわけ自分の子供達にさまざまなことを学ばせ、これからさき彼等にどんな目的が表れようとも、その目的を達成するための様々な手段を使いこなす熟練を仕込もうとして、いろいろ心を砕いているのである。それにしても子供がいつかは自分の目的をもつだろうということは、いずれにせよあり得る。とにかく両親のこういう心遣いが非常に大きいところから、両親はそれにかまけて、子供たちがいずれは彼等の目的にするかも知れないと思われるようなものの価値を彼等のために判断してやったり、或いはまた彼等の判断を修正してやったりすることをなおざりにしているのが通例である。

 明確に、家族という舞台が、いわば社会の自明性を教え込み、内面化する装置としてありうるとするならば、そもそも私たちの判断自体は、既に仮言的命法によって侵食されているということが出来る。子供の頃に「早く寝なさい」と言われながら、両親が夜ふかしをしていることに不満を持たなかった人、あるいはそれに類似する体験をしたことがない人はいない筈だ。言ってしまえば、大人は汚いということになるのだが、大人が汚いのは、彼らが仮言的命法的であるからだということができるが、しかしだからといって、子供は定言的命法として生きることもできない。

 最後に、ここにアルチュセールの言葉を引用して終わりにしよう。『アルチュセールの〈イデオロギー〉論』に収録されている「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」には、次のようなことが書かれている。

かくして、イデオロギーの外で(より正確には往来で)生じていると思われることは、実際にはイデオロギーの中で生じている、ということを付け加えることができる。したがって、現実にイデオロギーの中で生じていることは、イデオロギーの外で生じているように思われるのである。それゆえイデオロギーの中にいる人々は、当然イデオロギーの外にいると信じている。つまりイデオロギーイデオロギー的性格を、イデオロギーによって実際に否定することは、イデオロギーの効果のひとつである。すなわち、イデオロギーは決して《私はイデオロギー的だ》とは言わないものである。(まったく例外的な場合にしろ、一般的な場合にしろ)あたしはイデオロギーの中にいるとか、私はイデオロギーの中にいたと言いうるためには、イデオロギーの外に、すなわち科学的認識の立場に絶たなければならない。完全に衆知のことあだが、イデオロギーの中にいることへの非難は(本当にスピノザ主義者かマルクス主義者でない限り――この点では、全く同じ立場をとっている)他人にとってしか意味がないのであり、当人にとっては何の意味もない。このことは、イデオロギーは(イデオロギーにとっては)外部をもたない、しかし同時に(科学や現実にとっては)イデオロギーは外部にしか存在しない、ということと同じである。(p.88)