Archive / 2012

『ニーベルゲンの歌(上)』を読む

当時の感性を現代的な感性で読むのはおかしい、という話は理解できる。だけれども、無学無能者にとって一番の足がかりというのは、今の感性である。従って、『ニーベルゲンの歌』と呼ばれるドイツの叙事詩もそういう感じで適当に読んでいたりしていたが、かなりヘンな感じであることは間違いない。その辺りについては、『ニーベルゲンの歌(上)』だけを読んだ感想を、ここにメモしておく。

『ニーベルゲンの歌』の成立は1200年頃であり、その内容は過去の叙事詩である『エッダ』や『ヴォルスンガ・サガ』などの英雄譚をパッチワークして作られたものであることが指摘されている。従って、両者に出てくる英雄であったり、あるいは話の筋自体も似たような話が出てくるということが指摘されている。

例えば『エッダ』との共通点としては、ブリュンヒルデの話がある。不思議な炎に囲まれた城壁を乗り越えられる勇士とだけ結婚しよう、とするブリュンヒルデに対し、そのブリュンヒルデを妻に迎え入れたいグンデルは、ジークフリートが身代わりになって、その炎を乗り越える。これと似たような筋が『ニーベルゲンの歌』にも出てくる。彼女は三つの競技において、自分より勝る男としか結婚しないとする話である。

かぐや姫に限らず「妻の出す課題と、それを克服することによって妻を手に入れる」という話はあるにしても、恐らく当時の人々も何やら「ヘンな感じ」がしたに違いない。そのヘンな感じというのは、単純に考えて「ジークフリートが身代わりにグンデルになって、その結果ジークフリートが悲しい目にあうのは違うんじゃないのか?」ということである。考えてみれば、そんなグンデルのワガママに付き合う義理などさらさら無いわけだ。

そう考えてみると、『ニーベルゲンの歌』におけるブリュンヒルデとグンデルの関係というのは、いささか皮肉めいているというか、当時の人たちにおいても「やっぱワガママな王様という奴はダメ」という思いを抱いていたのではないか、という印象を受けざるを得ない。

構造的に見れば、ジークフリートとグンデル王の関係は非常に似通っているところがある。英雄ジークフリートもグンデル王も、噂に聞くひと知れぬ姫に恋をする。ただし、ジークフリートが恋い焦がれているクリエムヒルトも、この見知らぬ英雄に恋い焦がれていることが暗示されるのに対して、グンデル王の場合はもっと遠い異国の王女であり、少なくともこの異国の王女については、強い男なら誰でもいいのであって、決してグンデル王ではないとは言える。

昔話的に言うならば、ブリュンヒルデが「この世ならざる女」であることは暗示されている。例えば、『ヒメの民俗学』で宮田登氏は日本の詞書の中で「女性が想像を絶する大力を発揮している姿」に着目している。そこから、非日常や隠れた信仰を現しているということを指摘している。もちろん、欧米と日本の民俗学を全く同じに扱うことはできないが、とはいえ例えばブリュンヒルデを表現するときにたびたびでてくる「妖艶な姫」という言い方は、少なくともある程度まで「この世ならざる」という側面があるということができるだろう。

ジークフリートの、クリエムヒルトを追いかける超然とした態度に比べて、グンデル王の態度はいささか頼りがない。例えば、第七歌章はまさにグンデル王が、ブリュンヒルデの試練に立つシーンであるのだが、次のように述べている。

彼は心に思うよう、「これはなんとしたことか。

地獄の悪魔といえども、これには命を真っ当するわけにいくまい。

おれが生きてブルゴントの国へかえれたら、

もはや二度とこんな女に思いをかけることはなかろう。」

まさに王様の気まぐれという言うべきか、それとも思慮の浅さというべきか。

勇敢なダンクワルトも同様に弱音を吐いている。このような異様な状況に対しても、冷静に知恵を廻して打開するからこそ、英雄ジークフリートが引きたつといえばそうであり、実際に周囲が慌てれば慌てるほど、その対比として英雄ジークフリートが輝くという構造がある。実際に、彼はその英雄的な力を、姿を文字通り消せる隠れ蓑(明らかにニーベルゲンの指輪だ)を使い、二人羽織のように、恰もグンデル王が恰も力を発揮したように助力するわけだ。

とはいえ、ジークフリートとグンデルの対比がここで終わったわけではない。もちろん、ジークフリートはグンデルに口利きをしてもらって、クリエムヒルトと婚姻関係を結びたいという側面もあるわけだから、そのような状況が必要であった、ということは出来る。だが、グンデルとブリュンヒルデの関係の滑稽さに関しては、初夜を拒まれて泣きつく第十歌書にも引き継がれる。

現状において評判の悪いフェミニズム的な見方をすれば、夫の初夜を拒もうとする女をこしらめるという状況に端的にけしからんという言い方はできる。

このブリュンヒルデ、自立的な女性な印象があり、キャラクターの造形として面白さがある。少なくとも、グンデル王やジークフリートが勝手に婚姻を決めてしまう(もちろん、クリエムヒルトが半ば納得しているとしても)のには、本人の意思は介在しておらず、結婚に際しても「私はご命令のとおりに」というわけで、慎み深い女性であることを強調しているわけだが、それに対してブリュンヒルデは「あなたみたいな女性がなんでジークフリートみたいな身分の低い男と?」なんてお節介を焼くシーンは、余計なお世話であるとはいえ、クリエムヒルトみたいな素晴らしい女性が、そんなことで満足していていいの?という問いかけであるということもできる。

俺はこういう「貴方みたいな人がそんなことでいいの」と問う女性同士のやり取りに百合を感じるタイプなのだが、それは置いとこう。先もいっているように、グンデル王とブリュンヒルデの関係である。

一度クリエムヒルトの結婚に疑いを覚えて不機嫌になり(このあたりとかも百合っぽいのだが)、グンデル王の初夜を拒む。グンデル王はダメな男であり、事を無理矢理に運ぼうとするのだが、ズルして手に入れた女性であり、元々は釣り合わぬ。気がつけばボコボコにされて吊るされる始末なのだけれども、ここの描写は滑稽で笑ってしまう。

王は彼女の愛を戦いとるために、

彼女の着衣を掻き乱した。すると凛々しい乙女は、

腰にまとっていた頑丈な打紐の帯を解いて手にとった。

かくて彼女は王に対し、手ひどい苦痛をあたえたのである。

彼女は王の手も足もともに縛りあげ、彼を一本の釘にかけて

壁に吊したのである。それは彼が妃の眠りを妨げたので、

彼に対して愛を禁止したのであった。実際彼女の膂力のために、

王はすんでのことに命も失いそうになった。

そこで、主君のつもりでいた人が、嘆願し始めたのである。

「気高い姫よ、どうかわしの縛めを解いてくれ。

美しい王妃よ、わしは今後決しておん身を征服しようなどとは思わぬ。

もう二度とおん身のそばに休みもしないから」

普通に考えれば、この描写は滑稽であり、言い換えれば「不敬的」であるが、しかしこのような側面が、英雄叙事詩に出てくるのは興味深い。で、ミソジニー的に表現するなら、このような生意気な女性をとっちめなくてはいけないわけであり、その姫を叩くのはジークフリートである。

『ニーベルゲンの歌』はそういう意味では非常に複雑であり、従って何かと散漫としている印象は否めない。言ってしまえば、パッチワークする中において、様々な要素が入り込んでいて、そういうのがあるからこそ、国民的な叙事詩なのだろうということも出来る。そして、元々考えてみれば「見も会ったこともない姫」に恋い焦がれる人間というのは、やっぱり何か変であり、その変さについて、騎士物語が廃れると同時に出てくるのか、恐らくはセルバンテスの『ドン・キホーテ』ということになるだろう。

自らの嘘に騙されて――ポスト・トゥルーズと説得力に関する覚書

岩波現代文庫には『説話の森』という書籍があり、その中に「見えなかった龍」という小論が掲載されている。さすが専門の研究として、沢山の文献にあたり、広く説話の歴史的な経緯に関しては勉強にはなるのだが、しかし解釈としては些か釈然としないところがある。

この「見えなかった龍」の小論は、『宇治拾遺物語』に掲載されている「猿沢池の龍」を巡る話についての考察である。あらすじとしては非常に簡単な話で「僧がおもしろ半分に自分の池に龍が昇るという嘘の立て札を設置したら、人々が龍を見るために集まってきた」という話であり、のちに芥川龍之介がこの話を元に『龍』という短編を書いたことで有名である。

この小論において、著者の小峯和明氏は、原本の『宇治拾遺物語』では、民衆が集まって期待したにも関わらず龍が昇らなかったことに対し、芥川龍之介がその結末として龍が昇るように改変したのを受けて、本書の中で「<もどき>を解さない近代の浅い読み方」と皮肉めいた締めくくりをしているが、しかしこの結論は何か不思議な印象を受ける。芥川龍之介の改変がどうの、ということではなく、この小峯和明氏が出した読みも、芥川龍之介が陥った「近代」という側面から離れられていないように思うからだ。

公平に述べておくならば、小峯和明氏が述べたかったことは「ひしめく」ものに表される「群衆のエネルギー」が主題となっている。大まかの部分には異論はないのだが、やはり「むしろ龍は群衆そのものにほかならない。猿沢池の渦こそが龍なのだ、と解すべきではないか」と述べたところは、芥川龍之介的な陥没にはまっているように思えてしまう。

最近の個人的な興味として、欧米のロマン主義文学を「幻視」として読むということを行っている。噛み砕いて言うならば「現実の風景」に「現実以上に生き生きとした光景を見ること」と言ってもいいだろう。幻視といえば、嘘・まやかし、日本の語彙としてはゆめうつつとなるだろうけれども、しかし見田宗介的(大澤真幸も含めて)に言うならば「夢より深い覚醒」という言い方ができる。

少なくとも、芥川龍之介の『龍』という短編は「民衆のひしめくエネルギー」が「龍そのものではないか」と思わず呟く小峰氏の解釈とそれほど変わりはしないように思える。ひしめく民衆が龍のようである、とすることと、実際に龍が見えたと改変するところに、それほど遠く距離があるわけではない――少なくとも創作の上においては。敢えて言うならば、ロマン主義的な「幻視」、すなわち民衆の熱に浮かされて「実際に見えてしまった」とするロマン主義的な描写への不満でしか無いだろう。

とはいえ、小峯氏の解読が間違っているということを言いたいわけではない。恐らく口が滑った部分ではあって、ポイントは「民衆のひしめくエネルギー」をどう捉えるかだろうと思う。

文章によれば、悪戯で人を騙したがる僧のことを「狂惑の法師」と呼んでいたらしい。その「狂惑の法師」嘘を暴かれて恥をかくといった笑い話はある(例えば、いちもつが無いと自称する僧が弄られて、陰部を露呈する話なんかそうだろう)。むしろ一般的に笑い話というのはこのようなものであると思うのが一般的な感覚であるように思う。

小峯氏が述べているように、この話の興味深いところは「民衆を騙す僧」という構造だけではなく「自らの嘘に騙される」という二重の構造になっているということが出来る。それはなぜかといえば、民衆が立て札に集まったからであり、ひしめくということはそれなりに理由があるからだろう、と僧が推測する構造になっている。

恐らく『宇治拾遺物語』のこの話が興味深いのは、初めて「ひしめく」というものの修辞的効果、言ってしまえば説得力にぶち当たったゼロポイントだからではないか、ということを考えてしまう。「嘘」というのは、本人が「つくりごと」という対象からの距離感があって初めて成り立つものであるが、そのような「つくりごと」が当人にとってもただらぬ、つくりごとではない説得力として現れる瞬間をリアリティを持って書き出しているからに他ならないように思う。

私が敬愛する社会学者の一人に大澤真幸氏がいて、その人が好きな説話の一つに、カザノヴァのエピソードがある。カザノヴァは、田舎の娘を騙すために魔法の円を描いた。すると、ちょうど天候が悪くなり、稲妻が鳴り響く。カザノヴァは、自分の描いた魔法の円に何の効力がないのを知っていたにも関わらず飛び込んだとする話である。この話から「アイロニカルな没入」、すなわち自分は嘘だと知っているのにも関わらず、恰も本当のように振る舞ってしまうとする行動のモデルを出したのであった。

元々「アイロニカルな没入」自体が説話的な構造になっている側面があり、眉にツバをつけないといけないが、しかしこのような構造自体は早くも十三世紀、「猿沢池の龍」に出てくるのが興味深い。そして、この話自体が、芥川龍之介やこの著書、そして私のように、何かしらの没入性を引き込むものとして現れているのが面白いと言える。

ちょっとだけ最近の話題に振れると、ここ最近はポスト・トゥルーズ時代と呼ばれているが、しかし個人的に気になるのは、どちらかといえば、「人々を騙すために嘘をつく」のではなく、「自分が信じることが出来ないかこそ、嘘をつく」のではないかということなのではないかと思う。

アイロニカルな没入は、まず本人に「アイロニー」がなければいけなかったが、むしろ今となっては、何をもってアイロニーとするのかが解らなくなっている。つまり「何かを信じる」ために嘘をつく。もし人々が炎上したりバズったりすれば、そこには何らかの「説得力」があるということになる。池に龍が昇るということを立て札を設えて人々が集まった時、人々を集まったことを持ってして、その立て札を信じることができるという構造になっているようにも感じるが、この辺りはこの日記に書くのには、少し長過ぎる話になる。

説話の森―中世の天狗からイソップまで (岩波現代文庫)

説話の森―中世の天狗からイソップまで (岩波現代文庫)

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

「疎外論的認識と物象化論的認識が対決する社会」についてのスケッチ

最近思うことで、あまり一般的はない頭のおかしいことをメモしておく。本来、日記帳というのはそういう使い方をするべきだ。それに議論がかなり粗雑で偏見に満ちていることも理解している。ただのスケッチか、あるいはポストに入っている怪文書として理解してくれれば嬉しい。

自分が「はてなダイアリーはてなブログではない!)」を始めた頃、「非モテ論壇」というものがあった。要は「モテないということはどういうことか」ということを考えよう、という話であった。その中に「モテない」ということは、男性性の束縛であるわけだから、そこから脱出しようという、「メンズリブ」、つまり「男性性からの解放」という話があったのを覚えている。つまりフェミニズムの男版である。

現状として、その当時のことを思い浮かべるにこのような「フェミニズム」の男版は流行っていない。彼女たちは自分たちの考えている何かしらを「フェミニズム」と名付けて連帯をしている。一方で、男性たちはむしろ「連帯のできなさ」が問題になる。例えば、「キモくて金のないおっさん」というのはそのような「連帯のできなさ」のリミットである、ということが出来る。

個人的な実感として、男性の不満とは一般的に「これが本来の私ではない」という部分から来ている(一般的にこれを「疎外論」と呼ぶ)。他方で、女性というのは「私が私である」ということに不満を感じることが多いように感じる(これをあえて今回は乱暴に「物象化論」と呼ぼう)。

これはかなり妄想に近い電波的な話であるが(根拠が無いのにこういうことを言うやつは、基本的に頭がおかしい)、このように形式化すると、実はなぜ「オタク」と「フェミニスト」の対立なのか、ということに辻褄があう。

元々「オタク」の自意識というのは、何処か「私は虐げられたものである」という側面が存在していた。これはあくまでも過去形の話である。ただし、これは「オタク」本人の問題であって、「オタク文化」の問題ではない(もはやオタク文化そのものは、むしろ抑圧機構になりつつある)。つまり「オタク」たちには、その「文化」の立ち位置に関わらず、そこに薄い「疎外論」的な認識が横たわっているということができる。

疎外論自体は論理的には杜撰であるのにも関わらず、それが非常に説話的には説得力があるというズレがある。例えば「本来はもっと出来るはずだ……」と歯を食いしばり、唇から血を流すという実感は、それが不合理であり、如何に現実的に正しくなかったとしても、そう感じることはある。そのような錯覚を上手く説明しているということが出来る。錯覚は錯覚なので正しくないのだが、しかしその正しくなさを正確に書いているので、正しく見えるという構造があると、自分は理解している。そして、この構造を「男社会全般」までに広げることが出来る(男は疎外を持ちえない人間とは連帯できず、疎外自体が男性であることが要因になっているわけではない)。

「アンチフェミニズム」が良く述べることとしては、「私たちは上手くやっていた。だが、フェミニズムがやってきて……」という物語であることが多い。これが事実かどうかはともかく、ポイントとしては「もしフェミニズムがいなければ本来の私であった」という構造を取ることが出来る。

だがしかし、フェミニズム(を自認する人たち)の言葉を良く聞く限り、彼女たちの問題の多くは「私が女性であること」に関する不満であるということが出来る。例えば「性のモノ化」という議論は、性に対して物象化的な契機、すなわち「現象自体がモノとして定型化される」ような契機が存在しなければ、このような議論は出てこないだろう。現象は現象であるので、様々な側面を持ちうるが、それを一元化して「こうである」というような決めつけが発生することを物象化と呼ぶとするならば、そのような「決めつけ」に対して、いらだちを覚えているということ、というように感じる。

とはいえ、私たちが社会に参入するときには、何らかの物象化的な契機を免れない。チェーン店に行くのは、食事の作法を一元化することが出来るからだ。どうしても、日常生活を送るためには、出来事に対して何らかの一つの解釈で固定する側面は否めない。

ここで重要なのは、疎外論が物語的に説得力を持つのに対して、物象化論が論理的に説得力を持つ、という対立である。重要なのは、熊野純彦が述べていたのだが、疎外論の中で生きることはできても、物象化論の中で生きることは難しいという側面がある。もし物象化論的な生き方をするならば、それは「私が私として固定化される契機から絶え間なく逃げる」、つまり私を開き続けるといった生き方になるということができる。このような「疎外論と物象化論」という二つの「説得力」がぶつかり合っている場が仮想的に「男と女」を代理しているという捉え方が出来る(もっと乱暴に言えば「疎外論的認識」こそが、今の「男という主体」を生むのであり、「物象化論的認識」こそが今の「女という主体」を生む、という見方ができる)。

日本のお笑いについて幾つか

 日記。

 ここ最近は「お笑い芸人」の人種差別ネタについてヤンヤと言われている。

 この手の素朴さというのは、俺なんかが指摘するまでもなく、日本社会には人種差別がないということを当たり前のように考えているからかこそ生まれるものであるということは、一応指摘はできる。とはいえ、そもそも「笑い」という問題については、単純に言ってしまうならば、例えば「名誉白人」という言葉が歴史的経緯を考慮に入れたとしても、かなり滑稽な概念であるわけで、その手の滑稽さの磁場に引きづられてしまっていたのではないか、という気持ちはかなり大きい。

 これらについては、例えば筒井康隆や、それこそもうひとり召喚するならば、ビートたけしの持っていた「毒」というものが一体何だったのか、あるいは深沢七郎が書いた『風流夢譚』はなんだったか、あるいは村崎百郎は何を騙していたのか、という一連の「不謹慎」というものがどういうものであるのか、ということにどのようにアプローチするのか、ということを、私たちは未だに持たずに来てしまったのではないか、と考えている。そのあたりに対する考えもなしに、闇雲に「自主規制」をし続けたということが、今響いているのかな、という気がする。

 例えば、スローターダイクの『シニカル理性批判』をひいてみよう。

 読んだところまでかいつまむと、元々イデオロギー批判というのは、いわばそれを行使する権力側のあり方を暴露するという方法であった。例えば、それを一番最初にやったのはディオゲネスであったとしている。ただ、このディオゲネスは人をバカにしただけではなく、自分もまた同時にバカにされるような振る舞いをした。例えば昼間からカンテラを持ってうろつくのは正気の沙汰ではないわけで、そういう批判する側にも愛嬌というか、ユーモアを持っていた、という話である。で、近代になるにつれて、実はこういう愛嬌が批判する側から失われていくというのが本書の趣旨で、ぼくはその中にふと漏された「聖なる不謹慎」という言葉が好きで、いつかそれを体現できればいいな、と思っている(しかし、ぼくは昔から「聖なる」という形容詞が大好きなのだ)。

 ぼくは日本のお笑いは好きだが、ただひとつだけ残念だなと思うのは、日本は「聖なる不謹慎」と呼ばれる類の笑いを持つことは出来なかったのではないか、と思うことがある。これはひっそりと書きつけておくべき、妄言以上の意味は持っていない。

 「聖なる」という修飾語自体が、ヨーロッパ的であるということは可能ではある。もちろん、ところどころで出てくることはあった。中国は魯迅を持つことが出来たし、日本は太宰治を持つことが出来たけれど、しかしそれは喜ばしいものではなく、いわば社会の傷口を防衛する役割になってしまった。笑いが必要なのは、本当は溺れている犬ではなく、溺れている犬を叩く側ではない筈だ。魯迅的に言うならばそういうものであった筈なのだ。

 わたしたちの社会は「差別と黒人が嫌いだ」という文には笑えるんだけど、しかし同時に「黒人」という言葉でも笑っている社会ではある。

 そこはちゃんと捉えておくべきだろう。