Archive / 2012

底辺バーチャルYoutuber・芥川ドラゴソはなぜゆえに底辺なのか

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ブンブン! ハローユーチューブ。とにかく、右も左もバーチャルYoutuber時代であり、様々なバーチャルYoutuberがいる。これからも、続々とバーチャルYoutuberになる人が出てくる。

で、流石に流行モノだけあって、バーチャルYoutuberになれば注目されるかというと、そうではない。既にバーチャルYoutuberが、バーチャルYoutuberというだけで注目される時期はとっくの昔に過ぎている。その中で、飽きらかに地に沈んでいるバーチャルYoutuberも沢山存在している。

その中の一人に、「芥川ドラゴソ」がいる。

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芥川ドラゴソのYoutubeチャンネル。

芥川ドラゴソのTwitter。

その中、といったところで、俺が作ったバーチャルYoutuberなのだが、登録数で言うと150人程度という形で、結構低迷している。もちろん、多くのバーチャルYoutuberが、100人以下であるということを考えると、ある程度は善戦しているかもしれないが、キラリと光るバーチャルYoutuberは、大抵は200人を超えている状態であることを考えると、「芥川ドラゴソ」はあまり上手くいっていない実例にあたると思う。

あたりまえだが、この手の動画編集というのは、「薄ら寒いトーク」を聞くという地獄の過程を経るものであり、それに耐えて出てきたものだから、それなりの質は担保されているという自信過剰っぷりに支えられるものだ。とはいえ、客観的には低迷しているわけで、何故「芥川ドラゴソ」は底辺なのか、ということを語ることによって、今後のバーチャルYoutuberたちのダシにしてもらいたいと思う。

底辺の理由その1: 見栄えが良くない

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まず最初に言えることは、芥川ドラゴソは見栄えが良くないということである。少なくとも、Blenderの初歩を学ぶために、球体をペタペタとくっつけて作ったそのモデルは、正直なことを言えば、あまりにも見栄えが良くない。

基本的に動画である以上、ある程度の視覚情報的に心地の良いモデルが提供される必要があるが、芥川ドラゴソに関しては、それをクリアしているとは言い難いし、その上、非常に貧弱な画質によって提供されている。とすると、動画として「そもそもどうなの?」という問題があるように感じる。

動画のツカミとして、モデルのクォリティーがある程度担保されていたほうがよい。それは間違いないのだが、それに当てはまらないバーチャルYoutuber達も存在している。また、低モデルというのは、一つの笑いとして昇華される可能性だって秘めている。が、単純にモデルのクォリティーが低いのは、単純に手を抜いているだけである。

見栄えが良くない。これが底辺である理由の一つである。

底辺の理由その2: 寒い

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それなりに話の筋を考えて投稿しているのだが、ぶっちゃげていうと寒い。笑いには意図的なものと、そうでないものが存在しているわけだが、意図的なもので滑るとどうしようもない。他のバーチャルYoutuberはともかく、芥川ドラゴソはそんなに面白くない。

コメントとしては、「和む」という暖かいコメントもあるのだが、他の転載された動画を見ると、「ギャグセンスが無いのに、ギャグを押しているオッサン」というコメントもあり、なかなか辛辣な意見もある。実際、第4回のコメントを見ると「意味がわからない」というコメントが複数あり、話としてうわ滑りしていることがわかる。

どんなものであれ、無理に笑いを取ろうとするのは良くない。にも関わらず、笑いを取ろうとして滑ってしまう。これが底辺である理由の一つである。

底辺の理由その3: 中の人が滲み出てこない

バーチャルYoutuberというのが、ある程度キャラクターを何らかの技術によって同期させるという性質を取る以上、なんらかの形で演者が関わっている。いくつかの例外をのぞき、人気のあるバーチャルYoutuberというのは、何らかの意味で、「中の人」がある程度滲み出てきている。要するに、中の人の「その人らしさ」みたいな部分が出てきている。それが、親近感を生む要員になる。

芥川ドラゴソの場合、そのキャラクターの性質上、禁欲している側面もあって、中の人の「中の人らしさ」というのを過度に抑制している側面がある。そのため、中の人がふとしたときに見せる側面である「魅力」みたいなのが出てこずに、キャラクターとしての魅力にも繋らないという残念な結果になっているのだと思う。

バーチャルYoutuberは、バーチャルという架空の存在を通じて、よりキャラクターとしての「中の人の魅力」にアクセスしようとしている側面は必ずしも存在しているように感じる。それが存在していないとするならば、キャラクターに魅力を感じないのも仕方ないのだろうと思う。

キャラクターに魅力がない。これが底辺である理由の一つである。

底辺の理由その4: 特色がない

バーチャルYoutuberもキャラクターである以上、なんらかの特色であったり、特技が必要である。多くの人気が出ているバーチャルYoutuberの場合、技術であったり、あるいはイケてるボイスであったり、あるいはお絵かきであったり、といったような、自分が持てる知識だったり、技みたいなものを全面に出すようにしている。このような特色があってはじめて、「ああ、あの人の動画にいけば、こういうことをしてくれるんだろうな」みたいな想像が付くようになるのである。

しかし、芥川ドラゴソの場合、そういったものが存在しない。世界背景を作っているUnityだって、初歩的なところから勉強している最中であるし、Blenderもそれほどではない。では他のことで何か得意なことがあるかと言われると、そういうものもない。つまり、はっきりいって深く関心させるほどの何かがあるわけではない。

動画を見にくる人は、ある程度、面白さ、驚き、関心を求めるのであって、それが存在しないとするならば、動画を見る必要もないのである。

動画に対して特色がない。これが底辺である理由の一つである。

底辺の理由その5: バーチャル・コミュ障である

バーチャルYoutuberの傾向として、そのキャラクターを被って、Twitterで活動していたりすることが多く、他のバーチャルYoutuberとやりとりする傾向にある。このような絡みがあるからこそ、絡んでいるこのバーチャルYoutuberは一体なんなのか、と興味を持ったりする。

これに関しては、そもそも芥川ドラゴソの人が、あまり絡みに行くのも、凄く媚びているようで嫌だ、という自意識をこじらせた結果、からみに行くことが殆どないわけなんだけれども、この結果として、反応もできなければ、反応もされないという、悪い循環に陥いっている。

また、最近の流行りのネタに対してのっかっていくということもない。なんだか流行りのネタに走るのも恥かしい、という自意識があるためだ。つまり、そもそも根がネジ曲っているため、そういったこともできない。

バーチャルの世界でもコミュ障である。これが底辺である理由の一つである。

底辺の理由その6: そもそも労力をかけていない

労力をかければいいというものでもないが、有名になるバーチャルYoutuberというのは、元々の下地が違ったりする。

特に以前からその分野にかけて凄く頑張ってきた人間であったりする。そのため、自分みたいに、ポッと出て、UnityとAviUtlを少し勉強してみてできました、という動画が勝てるわけが無いのである。つまり、元々の蓄えてきた素地が違うのだ。それに、バーチャルYoutuber達も、苦難の時期があったことを考えるならば、ちょっと作っただけで、流行りに乗ろうとする甘い考えがそもそもおかしい、ということもできる。

そもそも労力をかけていない。これが底辺である理由の一つである。

まとめ

というわけで、芥川ドラゴソが底辺バーチャルYoutuberである理由を幾つか列挙してみた。元々、これは自分がUnityを勉強しようと思って、いい機会だから、何か続くモチベーションを作ろうとした結果である。なので、動画投稿はこれからも続けるとは思うけれども、芥川ドラゴソが日の目を出ることは多分ない。半年、もしかしたら一年くらい、ずっと動画投稿をし続ければ、可能性があるかもしれないが、多分そのと/きはそのときだと思う。

元々の性根が腐っている。これが底辺である理由の一つである。

芥川ドラゴソのYoutubeチャンネル。

芥川ドラゴソのTwitter。

『ドラゴン・オブ・ナチス』観た

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日記。

世の中には、つまらない映画のパターンというのが二つあって、例えば『実写版デビルマン』なんかは、圧倒的な物量を持ってして上から潰しにくる映画と、『エイリアンvsアバター』みたいに思いつきの勢いで、低予算で作ったために、圧倒的な質の低さを持ってして、下から突きあげるようなつまらない映画がある。

大抵、前者の映画は不名誉を持ってして、特異な人の記憶に残るわけなんだけども、後者の映画は記憶に残ることはない。そんな映画は沢山あるわけだし、それはただの記憶の空白地帯でしかない。そもそもそんな明らかな地雷を踏みにいく時点で、よっぽどの愚鈍か、酔狂かのどちらかでしかない。

で、Netflixで『ドラゴン・オブ・ナチス』が視聴できるので、コロニーで人々と見ていた。作品の内容はわかりやすく、「ナチスがドラゴンを復活させたので、それを阻止しよう」という映画だ。ドラゴンとナチス、という、完全にニッチな層に向けた映画なわけだから、B級でない筈がないわけである。というより、こんな思いつきをちゃんと形で作品にできることがすごい、という感じである。普通なら途中で飽きるか、脚本の時点で「無理だろ、こんなの」という風になる。そこは褒められるところだ。そして、ここで褒められるところはここで終わる。

さて、突っこみどころについては、各種映画レビューサイトに書いてある。問題はタイトルになっているドラゴン分とナチス分だ。だって、こんなタイトルの映画にまともな部分を期待しても仕方は無く、むしろそこにこめられている熱量が重要なんだ。多分。あと、こんなの見ても仕方ないのでネタバレもする。

まず、ドラゴン分。ファンタジー世界において、絶対的な恐怖の存在であるドラゴンなわけで、やはりそこには畏怖の対象というか、カッコ良さというか、そういう雰囲気が必要だろう。とはいえ、強さといえば戦闘機がちょっと強くなった程度。ドラゴンっつーか、途中からトカゲだな、と思って見ていたフシがある。途中でオスドラゴンが世界を破滅させるみたいなことを言うんだけど、呆気無く死亡するので、その強さが良くわからない。

さらにナチス分。特に無し。ナチス側の兵器といえばドラゴン一種という凄い極振り。ゲームの世界ですら悪手というのがすぐにわかる。現代でドラゴンといえば、まあ敵役といえばナチスということにしとけば、ドッグファイトする理由になるだろう、くらいの想定なんだろう。ドラゴンの翼についているナチスマークはさすがにカッコ悪い。ここでドラゴン好き向けポイントがマイナス一億点。

あとは、兵隊モノだから、隊長と部下との絆であったりとか、あるいはちょっとヒト癖もある男達が命をかけてミッションをクリアするという、いわゆるテンプレートのようなものを書きたかったのだろう。テンプレートみたいなもの、嫌いじゃない。むしろ好きなほう。ただ、本当にそのようなテンプレートだけなぞっているから、生焼けのホットケーキを喰っている感触がする。

まず、それぞれのキャラクターがわからないし、思い入れができるほど掘りさげてもいないから、あっけなく死んでいくんだけど、そのときに感情がわかない。あえて沸くとすると「面白い顔で死ぬなあ」という、非人道的な感想になってしまう。戦闘機は基本ドラゴンの炎に包まれて死ぬんだけど、雑な炎のエフェクトが画面にチョロっと出て爆発するから、なんか滑稽な感じになってしまっている。あと、部隊の会議に遅刻してやってくる兵士がいて、我々は「オッ、ちょっと規律は守れない問題児だけど、腕は確かなパイロットか?」なんて期待するんだけど、本当に遅刻してきただけだった、とか。

ドラゴンといえばファンタジーなのだけれども、ファンタジー要素といえば、ドラゴンを操る魔女の存在。なんだけど、単に絵を映えさせるために、美女を投入したかっただけでは、という気がする。いまいち存在が曖昧すぎて、どうにもならない。あとから動機もようわからんまま裏切ったりするし。オスドラゴンは復活させたらまずいみたいな話なのかな。だったら、もうすこしエクスカリバーで封印みたいな、思い切った話でもいいじゃないか。変なところで理性を使うな。

とはいえ、そうなんだ、B級映画なんだから、こんなのいいじゃないか。脚本に期待することが間違っているんだ。ドラゴンとのドッグファイトが突き抜けていればいいし、トンデモ展開で唖然とさせてくれればいいし、そうすれば、エンターテイメントなんだ……。だって、ラーメン二郎を喰うときに繊細な味付けは望まないだろう……。変なところで力を温存するな。

そうそう、ドラゴンの巣を爆撃に行くさいに、爆撃機の爆弾を拾うドラゴンには「理性があるな!」という感想を抱きました。ここも褒めるところだな、そういえば。

というわけで、近年の本質的なアニメである『異世界はスマートフォンとともに。』を圧倒するコンテンツなので、是非見て、せっかくの週末を無駄にして欲しいなと思います。見るなら友達と一緒に酒を飲みながら。

ちなみに、他に見ていた人は、体調を崩してパブロンを飲んでいた。

コロニーで、だらだらとボードゲームができる仲間が欲しい

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日記。

浅草橋にあるコロニーというシェアハウスのリビングが段々と集いと憩いの空間になっている。というと、それは平和な話であるが、内実としては、曖昧模糊な時間を潰していくという、いわばサークルのOBが学生気分になるための部室のような場所だというほうが正しいかもしれない。

普段はスーパーファミコンで遊ばれることが多く、『パネルでポン』というゲームは、このコロニーの場所の公式競技になっており、『パネルでポン』に強くなければ人にあらず、といったような風潮でもあった。実際、尋常ではない連鎖の応酬をするという感じであり、いくつかの住民は寝ているときも、パネルの動きが見えているという現象に悩まされていた。それだけハマっていたということである。

さて、そんなコロニーであるが、一時期『コズミック・エンカウンター』というゲームが、一部のボードゲームをプレイするメンバーに猛威を奮ったことがある。寝ても醒めてもプレイし続け、一日に5回もやっていたときがあったほどである。メンバーは固定で、自分と他3人である。(ちなみに、『コズミック・エンカウンター』について気になる人に簡単に説明すると、初版は1977年。マジック・ザ・ギャザリングにも影響を与え、2009年で全面ルールを見なおした改訂版が出るという流れになるようだ)

で、この宇宙の銀河を支配下に入れたいというメンバーというのも限りがあって、住民2人、たまにフラっと遊びにくる外部客2人(自分も含む)で遊んでいたわけだけれど、遊びに来ていた一人の方が私事の関係で遊べなくなりそうなのである。『コズミック・エンカウンター』は3人でもできるわけだけれど、4人のほうが望ましいので、これだとあまり遊べなくなるなーということになる。

別に『コズミック・エンカウンター』にこだわらなくてもいいんだけど、日常的に何かのボードゲームで遊びたい、となったときに、そのメンバーを集めるのは、人が集るシェアハウスでも難しい。自分は単なるエンジョイ組だし、もう一人は比較的ルールが簡単なゲームじゃないとやりたくない、もう一人はドイツゲームと呼ばれる凝ったゲームが好きだというし、割りとボードゲームをしたいとはいえ、ジャンルがまちまちなので、パチっとハマるゲームがなかなか出てこない。結果として、健康麻雀をしたりして過ごすことになる。

もちろん、今都内では週末になればボードゲーム会があるから、そこで遊べばいいじゃん、ということになるわけだし、多くの人が、そういう場でボードゲームをやっていると思う。あと、今だとオンラインでできる側面もあるし。とはいえ、ボードゲームの楽しみというのは、対面でお互いの顔色を見ながら遊ぶところにあると思うので、フラっと暇ができたところにコロニーに立ちよって、ボードゲームを一緒にするメンバーが増えると嬉しいし、そういう機会が増えると嬉しいなあと思った。なので、そういう日記を書いたのであった。ボードゲームも、暇なときにカジュアルに遊びたいよね、ということで。

自分は今は時間が自由だし、もう一人も時間がほぼ自由な感じではあるので。ただ睡眠時間がそれぞれマチマチなのが玉にキズではある。あるゲームとしては『カタン』とか『パンデミック』とか『宝石の煌き』なんかの定番どころが殆んどだけども。

まあそんな感じで、興味ある人は @esehara のほうに連絡すると、適当に案内しますので、お気軽にどうぞ。

お得に見えてお得に見えていないもの

 今日は新しくイヤホンを買った。自分は余り人が着用しているとか、しないとかには無頓着なので、普段は中古で買っているのだけれども、今日は珍しく新品のものを買った。唐突に買ったものとしては、意外に悪くはなく、日常的に使うだろう。とはいえ、自分の耳が些細な音質を見分けるくらいの耳があるかは不明ではあるんだけれども。

 久しぶりに、それなりのヘッドフォンを手に入れたので、中身を見たりしていたのだけれども、いろいろと付随品がある。付け替え用のパッドがあるのは、耳の大きさがそれぞれ違うのだからいいとして、イヤホンを収納するための袋であったり、ケーブルを巻くためのものであったりとか、ちょっと付属品があったりした。

 で、自分はイヤホンを収納する袋というのは、あんまり使わないタイプだったりする。モノを扱うのが雑だったりするので、ついついポケットにイヤホンを丸めて入れてしまう。なもんだから、袋に入れて使うということがあまりない。で、そういうのがあまりないものだから、ついつい「イヤホンを収納する袋を付けるくらいならば、値下げしろ」と思ってしまう。で、この辺で、自分の感情に「アレ、これおかしいなあ」と思ってしまったのだった。

 人がお得だなあ、と感じるのは、「思ったよりも安く買えた」とか「思ったよりもモノが良かった」というパターンだと思うのだけれど、普通、余計なモノがあるならば「ラッキー」と思うはずだし、そっちを選んだりすることもある。それは単なる貧乏性だったりするんだけど、今回の場合はそうは思わないということだ。

 自分はイヤホン工場でイヤホンを詰めるモノの検討をしたことがないから、あまりわからないけど、意外に出荷しなかったり、余ったりする、といったような「値段に直接関係はないかもしれない」付属品があるとする。もし新しいモデルが出来たとして、もし近くに「値段には反映されない付属品」があったとするなら、特に問題ないなら、それを一緒に付けると思う。なぜなら、そっちのほうが「お得に感じる」から。

 でも、消費者に直して考えてみると(というより、自分のことだけど)、付いている商品=値段という風に錯覚しがちでもあるとは思う。つまり、一つの付属品が減れば、その商品も安くなるんじゃないのか、と考えてしまうんじゃないだろうか。だとすると、実は「よかれ」と思ってやったことというのは、実は「そんな余計なことをするんだったら安くしろよ」という話になっちゃうんじゃないだろうか。

 よく、「メーカーが『消費者はこういうのを欲しがっているんじゃないか』と想像すること」と、「実際に消費者が欲しがっているもの」ということのズレは話されたりするんだけれども、こういうのも要因としてあるんじゃないんだろうか。「何かたくさん付けたりすることがリッチで良い」というのは、ある領域では優位性を失って、「いや、そんなにたくさんモノはいらないから。だからそのかわり安くして」みたいな、良くも悪くも現実的な欲望というのはあるんじゃないんだろうか。

 いや、無闇に値下げするのもよくないけれど、そんなことを思いながら、今日の日記は、新品のイヤホンでノリノリになりながら書いたのでした。